KATAZINO’s blog

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数秘術で偉人をリサーチ 副島種臣【誕生数① 日本】 Research the great with numerology "Soezima Taneomi"【№① JAPAN】

秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

 

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副島種臣(そえじまたねおみ)【誕生数① 日本】

 

 副島種臣・・・。名前は聞いた事がある、という人は多いと思うが、どういう人生を送った人かと聞かれれば・・・イマイチすぐに思い浮かばない人が多いのではないだろうか。

 

 思いだすのは、たしか佐賀出身だったような・・・ということくらいかも。

 

 だがしかし副島公の足跡は偉大だ。賢者の域に達している人だ。奇しくも江藤新平とは同じ佐賀出身で、誕生数も同じ№①だが、二人の運命はまるで違ったものとなってしまった。

 

 面白いことに今回気づいたが、征韓論の中心メンバーの多くが№①だということだ。江藤新平副島種臣後藤象二郎も。

 

 木戸公とはソリが合わなかったらしいが、二人の育った環境はよく似ている。キャラクターが被っていて同族嫌悪だったのだろうか。副島公は木戸公ほど武の面においてずば抜けてはいなかったが、学問の環境では副島公のほうがより恵まれていたかもしれない。父親も兄も藩校の教授という教育環境にあったからだ。

 

 そんな偉大な副島公だが、公をそこまで成長させたのは、神童と呼ばれ天才児であり、水戸の藤田東湖と東西の二傑と並び称されていた兄、枝吉神陽、さらには藩校「弘道館」の教授だった、父、枝吉南濠の存在が大きかっただろう。

 

 両者とも副島公にとってはあまりにも巨大すぎる壁だっただろう。だが公はそれを乗り越え、そしてそのすべてを取り込み、さらに大きな器の人物となった。マリア・ルス号事件、日清修好通商条約の改正は公の偉大な功績だ。

 

 また公は樺太を200萬圓で買い取ることを上奏していたが、叶わず、それが成就しなかったことを一生後悔していたという。

 

 征韓論では、板垣退助と共に遣使を出張したが、西郷たちと共に下野した。佐賀に戻ることは板垣に説得され留まったが、江藤新平は佐賀に戻り、佐賀の乱の首謀者に担ぎ上げられ、無慈悲な形で最期を迎える。ここが二人の運命の分かれ道となった。

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(36才、45才、54才前後)

 

 ※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。

 

 

 

副島種臣 (1828.10.17~1905.1.31)

 

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年譜

1834(6) 藩校「弘道館」に入学。

 

1848(20) 兄、枝吉神陽が江戸から佐賀に帰郷して弘道館教諭に就任すると、種臣は内生寮首班となる。

 

1850(22) 「義祭同盟」を結成すると兄と共に主催。

 

1852(24) 皇学研究の為に24歳で京都に留学。

 

1853(25) 黒船来航を京都で知り、1855年に藩命により再び京都に留学。

 

1859(31) 父が死去。この年に、佐賀藩士・副島利忠の養子となり、律子と結婚。謹慎を解かれると、弘道館教諭を命ぜられる。佐賀藩蘭学寮を設けていた藩主・鍋島直正が、新しく英学塾・変学稽古所(後の致遠館)を開校するに当たり、督学の任に当たるように勧められ、これを受諾。

 

1862(34) 兄、枝吉神陽(えだよししんよう)が 41才でコレラで死去。

 

1865(37) 長崎五島町に致遠館を開校すると、佐賀藩はフルベッキを招いて英学を講究。副島は和漢学を教える傍ら、フルベッキに就いて英語を学ぶ。

 

1867(39) 3月脱藩。長崎に滞在していた土佐藩士・後藤象二郎の旅館を訪れて、江戸幕府将軍・徳川慶喜に「大政奉還」を建言する為、長崎から大坂に行く土佐藩の「朝日丸」に乗り京都へ上った。この時、大隈重信も同行した。

 

1868(40) 明治元年3月13日には明治新政府から徴士・参与への任命を受ける。副島は輔相・岩倉具視の下で、藤川三渓と共に奥羽征討軍監となり、佐賀藩は寡兵ながら奔走した。

太政官の職制発足と共に、参与兼制度事務局の判事となり、朝臣となる。議定・鷹司輔煕、同局判事・福岡孝弟と共に「政体書」を起草した。

 

1869(41) 明治2年5月13日に輔相・議定・参与の公選が行われ、副島は木戸孝允の42票に次ぐ31票で参与に任命された。

佐賀藩では、同年に藩政改革が進められ、久米邦武の起草で藩治改革が成り、藩主・鍋島直正の下に副島は参政、江藤新平が参政格に任命された

版籍奉還が行われた後の7月8日に「職員令」が制定されると、前原一誠と共に最初の参議に任命され、後に広沢真臣が加わり3人の参議による政治体制が明治3年(1870年)2月まで続いた。

 

1870 参議と大学御用掛を3月まで兼任した。

 

1871(43) 5月13日に樺太境界談判のため田辺太一を随員としてロシアのポシェット湾へ派遣されるが、ロシアがビュツオフを駐日代理公使に任命して談判することと変わり、副島は200萬圓で樺太全島を買収することを上奏して黒田と対立した。11月4日に、岩倉具視が洋行(岩倉使節団)するに当たり、後任の第3代外務卿に就任。

 

1872(44) 明治5年5月、留守政府の井上馨は日清間に両属的地位にある琉球に対して内地同様の制度を及ぼすことを建議。副島は尚泰王藩王に封じ、華族に列し、外交を留めることを要請した。9月3日に東京に着いた琉球使節一行と懇談。9月15日、正院に琉球藩属体制を建議した。

6月4日、マリア・ルス号が横浜港に寄港(マリア・ルス号事件)すると、副島は太政大臣三条実美から全権委任を受け、神奈川県が裁判に当たるよう県令に指令した。

8月8日に、ペルー国使節・アウレリオ・ガルシア・イ・ガルシアと会談し、ペルー国との和親貿易航海仮条約十ヵ条を調印した。

 

1873(45) 明治6年、前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵)の処理も含め、特命全権大使に任命され清国に赴き日清修好条約の批准を交換した。3月19日に鹿児島に上陸して西郷隆盛を来訪し、次いで20日島津久光の招きに応じた。

6月29日、副島は大礼服を着し、鄭永寧を率いて轎に乗り宝均・毛昶熙の導きにより紫光閣にて穆宗同治帝と単独謁見した。

10月14日に太政官代でいわゆる征韓論閣議において、副島は板垣退助と征韓派を代表する形で遣使を主張。しかし、10月23日に西郷隆盛の遣使中止が岩倉具視によって決定されると、西郷に続いて板垣退助後藤象二郎江藤新平と共に24日に下野した(明治六年政変)。

副島は江藤新平と共に佐賀帰県を促されたが副島は板垣退助に説得され留まった。

 

1874(46)4月 佐賀の乱が鎮圧される。 

 

1875(47) 明治8年10月、外務省事務総裁を仰せ付けられる。

 

1876(48) 明治9年9月20日霞が関の自宅を売却し、従者一人を連れ「東京丸」で横浜を出帆し、神戸で楠木正成を祀る湊川神社に参拝。長崎を経て上海に渡った。

 

1878(50) 明治11年、清国から帰国した。訪問地は上海、蘇州、杭州、天津、北京、西湖では岳飛の墓に参り、満州、漢口など。

 

1881(53) 曽根俊虎から頼まれ、明治14年1881年)5月から12月まで興亜会の会長を務めた。

 

1887(59) 明治20年に宮中顧問官。

 

1888(60) 明治21年に枢密院が発足すると、枢密顧問官となる。松方正義が第1次松方内閣を組閣すると、枢密院副議長から転じて内務大臣に就任したが、白根専一との対立の為3カ月に満たずに辞任し枢密顧問官に復帰した。

 

1891(63) 明治24年に「東邦協会」が発足すると、賛同者に推されて会頭となる。

 

1892(64) 明治25年に東邦協会附属私立露西亜語学校の評議員も務めた。

 

1905(77) 明治38年1月31日、脳溢血のため死去。

 

 

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【誕生数;1】 1828.10.17 → 1.9.1 & 8

 

 生来、度胸があり肚が座っている一方、非常に繊細な感性をあわせ持つ。自分に誇りを持つ高潔な人格者であり独立独歩の人であった。他人からあれこれ指図されるのは嫌いだっただろう。全幅の信頼を受け、全て任せられると実力以上の力を発揮するタイプだ。

 大雑把で面倒くさがり屋な面と緻密な管理統率力の持ち主。物事の大局と細部が見える人で、常に全体を把握し、状況を冷静に分析し、決断を下し、行動に移しただろう。地球規模で世界情勢を俯瞰できていただろう。間違ったことや平等でないことフェアでないこと、人種差別的な事が許せないヒューマニストでもあった。その繊細な感性は数多くの優れた書や漢詩を生み出した。

 

 征韓論で下野したあと、板垣に説得されて佐賀に戻ることを思いとどまったそうだが、板垣も①⑨⑧という同じ数字を持っているので他人とは思えないくらいフィーリングが合っただろう。

 

 

【頂点数と試練数】 36-1=35

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第1期(35歳まで)

【頂点数; 9】学びを統合し恩返しをする時。

【試練数; 7】深刻な状況も訪れる。深いスピリチュアルな問題に直面する。 

相当シビアに精神面を鍛えられただろう。

神童と呼ばれた兄、枝吉神陽。藩校弘道館教授だった父。物心ついたときから常に周りから期待や比較の念を飛ばされてきたであろう。性格も人一倍センシティブだったはずで、その思いを敏感に感じていたことだろう。だがこの虎の穴のような環境は、将来、明治日本を背負って立ち、世界に通用する一流の人物を育てるには最高だった。繊細だったが負けず嫌いで冷静な理論家でもあり、メンタルも強いタイプでもあったため、周囲の念に押しつぶされることなく、逆に押し返し、乗り越え、天賦の才能を花開かせた。とはいうものの幼年時代のコンプレックスは相当なものだったようだ。21歳にして「弘道館首班」となったが、その陰では凄まじい努力を積み重ねたように思う。

 

第2期(44歳まで)

【頂点数; 9】学びを統合し恩返しをする時。

【試練数; 7】深刻な状況も訪れる。深いスピリチュアルな問題に直面する。 

 第1期と同様で同じ試練が続くが、同時に第1期にさらに輪をかけて、出来事がスケールアップ、インターナショナルになっていった。人間的にもどんどん器が大きくなっていった。44才から45才にかけて、たて続けに大事件が起こる。それはまるで第1期、第2期の卒業試験のようであり、第3期にさらにスケールアップして活躍できるように経験を積ませるためにやってきた試練のようだ。

 

第3期(53歳まで)

【頂点数; 9】学びを統合し恩返しをする時。

【試練数; 0】試練は特にない。 

人間的成長を促される環境は続く。引き続き国際的な活躍の場が訪れた。

51才の年、明治天皇に大学中庸尚書を進講した。ご進講は58才の年まで続いた。45才以降は特に試練はなく穏やかな晩年を過ごす。薩摩閥の黒田清隆からは目の敵にされていたようだ。

 

第4期(54歳以降)

【頂点数; 2】協力と奉仕の時代。

【試練数; 0】試練は特にない。 

 他者をサポートする役割。

多くの人々から頼りにされ、社会的な役割は続いた。

 

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前列左から2人目が副島種臣

 

あとがき

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  同じ誕生数を持ち、同じ肥前佐賀藩藩士として育った副島公と江藤新平の大きな違いはなんだったのか?

 

 それは、第一は、“運”の違いのように思える。

 

 副島公はかなりの強運の持ち主だったようだ。加えて先祖代々の徳、つまり家運というのもあったように思う。生家の枝吉家は代々槍術師範を業として佐賀藩に仕えていた家でもある。

 

 一方、江藤には悲しいかな、それが足らなかったように思える。江藤家は積善の家ではなかったのかもしれない。江藤の父は、武士であったが、職務怠慢で永蟄居という処分となっていて、そのため江藤家は非常に困窮した時代が続いた。父親が家代々の徳というものを棄損させてしまったのかもしれない。

 

 もう一点、大きく異なる点は、副島公は、試練数という数字が人生の第3期以降【0】だったということだ。試練数が【0】ということは特に試練がないということ。高橋是清公も、人生の第3期以降の試練数が【0】だったが、226事件で凶弾に倒れたとはいえ、当時としては82才という長寿でこの世を去った。226までは、大臣を歴任し、社会から必要とされ、忙しくも家族に囲まれ、幸せで穏やかな日々を過ごしていた。

 

  副島公は明治天皇にご進講するという栄誉を賜り、人々から必要とされ、幸せな晩年を過ごし、天寿を全うし、江藤は壮年の盛りに志半ばで斃れた。

 

 副島公は書道家としても有名で、“蒼海”という名で多くの作品を残している。その作風は自由闊達で今なお評価が高い。佐賀新聞の題字は副島公の書いたものだという。

 

 漢詩も中国人から褒められたほどの才で、「蒼海全集」に2000を超える漢詩が含まれているという。

 

 

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「帰雲飛雨」(佐賀県立美術館蔵)

 

 

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「春日其四句」 。読みは「野は烟霞(えんか)の色に富み、天は花柳の春を縦(ほしいまま)にす」。

 

 

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「富士山画詠額」(佐賀県立美術館蔵)。詩には、「ひと津可の石をそこ者く可さ根亭そ代爾多くひなき多可根とはなる」とある。

 

 

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一番左の人物が副島公

 

 

 

※MEMO

 

 A;誕生数

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※参照

 

ja.wikipedia.org

 

www.sagabai.com

 

kotobank.jp

 

 

sagamaga.jp

 

 

rekisiru.com

 

 

meiji-revolution.com

 

 

蛤御門と鷹司邸跡 Hamaguri Gomon and Takatsukasa residence ruins

【蛤御門】

維新前夜、この門を巡って、長州藩薩摩藩が激突した。(禁門の変

攻めるは長州藩、守る薩摩藩会津桑名藩

 

 

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蛤御門

長州藩では木戸孝允久坂玄瑞、来島又兵衛、寺島忠三郎らがここで戦った。

 

一方、薩摩藩の指揮官は西郷隆盛だった。

 

最初は長州藩が優勢だったが、薩摩藩が援軍に駆けつけると、あっと言う間に蹴散らされてしまった。おそらくは装備の違いが大きかったのだろう。薩摩藩は最新式の火器を実戦投入していたという。

 

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この戦いのわずか数年後、この二藩が同盟を結び、

江戸幕府が突然、大政を奉還し、

明治新政府が樹立し、

木戸と西郷が維新三傑と呼ばれるようになるなど、

誰が予想していただろうか!?

 

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また、この禁門の変のとき、長州藩久坂玄瑞はこの鷹司邸で自害した。

 

今となってはそんな強者の夢のあとなんて、微塵も感じないほど平和な松林があるだけだ。

 

もし久坂が生きていたなら「村塾の双璧」「松門の四天王」と言われた俊傑はどんな活躍をしただろう・・・。

 

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鷹司邸あと

 

鞍馬から貴船へ From Kurama to Kifune

 

叡山鉄道鞍馬駅を出て、ロープウェーには見向きもせず、

一路、歩きで鞍馬寺を目指す。

 

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途中、火祭りで有名な由岐神社に立ち寄った。

由岐神社は鞍馬寺の鎮守社であり、平安京の北方鎮護をつかさどる神社。

 

御祭神は大己貴命大国主命)と少彦名命。もともと宮中に祀られていたが、940年、大地震が起き、その後、天慶の乱も起きたためこの地に遷宮されたという。現在のお社は豊臣秀頼の発願により1607年、再建された。

 

が、しかし再建から400年超、さすがに社殿の痛みが進行していて、

そろそろ建替えしたほうがよさそうだ。

 

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鞍馬寺

貴船が女性的であるのに対して、鞍馬は男性的で力強いエネルギーに満ちている。

 

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本殿前の石畳には六芒星

 

 

いざ、鞍馬山中へ。

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鞍馬山の山体は地表のすぐ下まで岩石のところが多いようで、そのため樹木の根が地表を這っているのをよく目にするが、アメリカのセドナのように大地からのエネルギーが渦巻いているかのようだ。

 

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僧正谷不動堂付近。急に霧が濃くなってきた。

 

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牛若丸(源義経)は毎晩、この地で僧上坊という天狗と武術の修行をしていたという。

 

 

僧正谷不動堂

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ここにも六芒星・・・

 

 

奥の院魔王殿

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貴船神社

貴船一帯には優しいエネルギーが溢れている。

貴船神社は水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。

 

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龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神。古くから祈雨の神として信仰された。

 

創建の年代は不詳だが、社伝では神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗ってこの地に上陸し、水神を祭ったのに始まるという。

 

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その「黄色い船」が転じて「貴船」になったという。

 

また「氣の生まれる根源」が転じて、「気生根」になったという説もある。

 

実際、貴船エリアを歩いてみると、気と言うか、マイナスイオンの密度がものすごく高いなーというのが体感でよく分かる。

 

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貴船神社奥宮】

貴船神社の創建者、神武天皇の母君である玉依姫が最初に神を祀った地。

境内にある「御船型石」は、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものだという伝承が残る。

 

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本殿下は洞窟になっているらしい。

江戸時代だったか社殿を修理中の大工が誤ってノミをこの穴に落としてしまったことがあったそうで、その際、落としたノミが強い風に乗って穴の中から吹き上げられて戻ってきたとか。

貴船は気生根とも呼ばれるが、その気が生じる源泉がこの奥宮の下にある穴なのかもしれない。

 

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先日の日本列島全域を襲った豪雨で、この貴船エリアも被害を被ってしまったようだ。

川床で有名な右源太さんの施設が流されてしまっているのをニュースで見たが、一日も早い復興を祈っています。

 

下鴨神社から上賀茂神社へ From Shimogamo Shrine to Kamigamo Shrine

 

下鴨神社へ。

 

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下鴨神社 鳥居

 

 

下鴨神社に来たら、神域内になんとも言えない甘い香りが漂っているのだが...。

 

きっと近くの民家でケーキでも焼いているのだろう...(そんなわけないか)。

  

糺の森の空気が凛として澄み渡る感じが心地いい。

 

 

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糺の森

 

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糺の森

 

 

 

上賀茂神社へ。

 

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上賀茂神社 参道

 

上賀茂神社は、なんだか田舎のばあちゃんの家に来たような雰囲気がするお社だ。

まあ、日本、つまり大和朝廷の原風景がここにある...ということなのだろう。

 

それはたぶん・・・、産土神社が熊野神社なのだが(和歌山ではない)、

熊野神社と言えば、八咫烏(ヤタガラス)。

 

その八咫烏と下鴨、上賀茂神社は深いつながりがあるからかもしれない・・・。

 

社伝では、八咫烏とは下鴨神社の御祭神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の化身だという。

 

そして、賀茂建角身命の娘が玉依姫命であり、

 

玉依姫命の息子が、上賀茂神社の御祭神、賀茂別雷大神という。

 

玉依姫命は、下鴨神社の本殿右の御祭神でもある。

 

少しややこしいのが、神武天皇の母も玉依姫だが、こちらは別人のようで、古代においては女の子に人気の名前だったらしい。

名前の意味するところは「神霊が依り憑く巫女」だとか。

 

ただ貴船神社の創建に関わったのも、神武天皇の母の玉依姫命となっていて、これは社伝にもそう書いてある。

 

貴船神社は天喜3年(1055)頃から明治まで800年以上も賀茂別雷神社の摂社となっていたことも、理解をややこしくする要因だ。

 

おみくじを引いてみたら、ズバリなお答えをいただきました。

豆木もあったので、せっかくだから書かせていただきました。

 

賀茂別雷大神かもわけいかづちのおおかみ)に感謝です。

 

 

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上賀茂神社 楼門①

 

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上賀茂神社 楼門②

 

 

玉櫛媛(たまくしひめ、玉櫛姫)、玉依媛(たまよりひめ、玉依姫

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A8%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%A1_(%E6%97%A5%E5%90%91%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

 

タマヨリビメ(日向神話)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A8%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%A1_(%E6%97%A5%E5%90%91%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

 

タマヨリビメノミコト

https://kojiki.co/gods/tamayoribime.html

 

京都霊山護国神社 Kyoto Ryozen Gokoku Shrine

 

先日、京都に行ってきた。

ここ最近、なんとなくだが、京都に行かなければいけないような、

気がずっとしていたのもあったからだ。

 

数秘術で偉人を分析』も9人までアップしたので、

その報告も兼ねて『京都霊山護国神社』に参拝してきた。

 

 

まずは本殿に参拝。 

 

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京都霊山護国神社

京都府出身の英霊7万3011柱と、嘉永6年以降の幕末から維新にかけて命を落とした志士を祀る。本殿右手の山の斜面には、木戸孝允(桂小五郎)を始め、坂本龍馬中岡慎太郎、平野國臣、宮部鼎蔵をはじめ、蛤門の変、天誅組の義挙等に加わった維新の志士たちの墓300余基があり、1356柱が合祀されてある。

 

 

 

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それから、本殿横の維新の志士たちが眠る墓地へ。

 

 

まずは、最上段の木戸公のお墓へ。

 

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木戸孝允公のお墓 最上段にある

 

木戸公の妻、幾松さんのお墓は仲良く隣にある。

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幾松さんのお墓

 

幾松さんのことはこちらはどうぞ。

木戸松子(幾松)の波乱な生涯 デキる美人妻は夫・木戸孝允をどう助けた?

https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2020/04/10/47060

 

 

木戸公には今の日本はどう映っているのだろうか・・・?

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木戸公のお墓から京都市街を望む

 

 

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坂本龍馬中岡慎太郎のお墓

 

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坂本龍馬中岡慎太郎のお墓から京都市街を望む

 

 

東京裁判で唯一、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張してくれたインドのパール判事の記念碑もあった。

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なぜかインドのパール判事の記念碑があった。

 

 

 

数秘術で偉人を分析』もやっと1クール分の9名をアップしただけなので、もちろんこれからも他の偉人たちをアップしていきますよ。

 

もし、自分と同じナンバーの偉人さんを見つけたら、じっくり読んでくださいね。

なぜなら、自分と同じナンバーを持つ人は、人生のパターン、転機のタイミング等が自分とよく似ているから。

 

同じナンバーの偉人は人生の大先輩とも言える。

 

あなたの人生にインスピレーションを与え、シンクロニシティを発動させ、導いてくれるだろう。

 

もしかしたら、彼らがやり残した分野の仕事を、あなたが受け継いでいくことになるかもしれない。

 

なぜなら、同じナンバーを持つ人の人生の目的地は、同じ方向だから・・・。

 

 

 

秘秘術で偉人をリサーチ 板垣退助【誕生数⑨ 日本】Research the great with numerology "Itagaki Taisuke" 【№⑨ JAPAN】

秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

 

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60歳の頃

 

板垣退助(いたがきたいすけ)【誕生数⑨ 日本】

 数秘術で偉人を分析シリーズ、九人目は板垣退助。日本人なら誰もが知っている明治維新の元勲だ。しかし、どんな人だったのかと聞かれれば・・・どこかで暴漢に襲われて「自分が死んでもナントカは死なない・・・」とか言い残して亡くなった人・・・という記憶がある人が多いかもしれない。

 

 かくいう自分もその一人で、今回、改めて板垣公の人生の足跡を辿ってみて、実は暴漢に襲われた時、命を落としていないことを知った・・・。

 

 一方、板垣公がどれだけ偉大だったかとううこともよく分かった。例えれば、山に登るとき、高い山ほど麓からは頂上は見えないように、公の功績はあまりにも大きくて高く、そして広く遠大だ。

 

 戦であればどこそこで武功を挙げた、という誰の目にも見える功績となる。だが国会の開設を求める自由民権運動を中心となって推進するとかいう、ゼロから形のない仕組みを作っていく、しかもそれは未だかつて日本ではだれも聞いたことも見たこともないシロモノ。いくら丁寧に話しても理解できない人のほうが多かっただろう。

 

 しかし、予定通り、1890年に第1回総選挙は行われ、帝国議会は開かれた。板垣公の功績とは、全くのゼロ、無風状態、線香の火さえもないところから、気運を生み出し、それを膨らましていった点にあるといえるだろう。

 

 飛行機もそうだが、何事も動きだし離陸するまでが一番エネルギーを要する時であるように・・・。

 

 このように№9の人生というものは、往々にして遠大で複雑で高尚である場合が多い。インドのマハトマ・ガンジーも同じ№9だが、そういう意味では、やはり自由民権運動を主導するのに最も相応しい人物は板垣公しかいなかったと言える。 

                                     
 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(28才、37才、46才前後)

 

※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。

 

 

 

板垣退助 (1837.5.21~1919.7.16)

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44歳の頃

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50歳の頃

 

【誕生数;9】 1837.5.21 → 1.8.9 & 3

卓越した現実的処理能力と統率力、崇高な精神性の持ち主。自由や平等、フェアであること、誠実であることを良しとしていただろう。表現能力も秀でていて言葉による弁舌も得意だっただろう。実際、幕末期は軍指揮官としては西郷に次ぐ評価を受け、その後、自由民権運動を主導し全国を遊説して回ったが、これは弁舌の才なくしてはできない仕事だ。

親分気質と聖人のような俗世間を超越したような、鬼と天使が同居しているような面があったかもしれない。幼少期は番長同然だったようで、毎日喧嘩ばかり、一方、人生の後半は金も名誉も地位も興味ないような、まるで『竹林の七賢』のような暮らしぶりだったそうだが、№9ならそれも頷ける。何事も大局から捉えていたのだ。

 

 

【頂点数と試練数】 36-9=27

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第1期(27歳まで)

【頂点数; 8】現実的な成功の機会がもたらされる。

【試練数; 2】自分の思い通りに物事が進まない状況も訪れる。        

幼少期は腕白でやりたい放題だったようだが、幼馴染の後藤象二郎の叔父だった、土佐藩家老吉田東洋に抜擢され、藩主山内容堂の側に置かれた。次第に藩の要職を任されるようになった。土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張していたが、当時の土佐藩上士は公議政体論が主流だったため、この点において多くのジレンマを抱いていただろう。

 

第2期(36歳まで)

【頂点数;4】 第1期の経験により評価が高まる。

【試練数;2】 自分の思い通りに物事が進まない状況は続く。   

1867年には、藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令した。同年9月、板垣退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議。10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す、など土佐藩の中心的存在となっていった。

だが12月、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対していた板垣は失脚。土佐藩兵は板垣を残して上洛。しかし、翌年1月9日、板垣の失脚は解かれ、1月13日、深尾成質を総督、板垣退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦、と状況は目まぐるしく変転した。

1870年に高知藩の大参事となる。1871年明治新政府の参議となる。1873年、板垣は率先して征韓論を主張、だが欧米視察から帰国した岩倉具視らによって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らとともに下野した。(※ちょうど第2期の終わりの年にこの事件は起こった。)

 

第3期(45歳まで)

【頂点数;3】 いろんなことに挑戦する。様々な人との出会い。

【試練数;0】 この時期は特に試練はなく比較的自由に生きれただろう。 

征韓論を契機に自由民権運動に挑戦することになる。政党も結成し全国を遊説しさまざまな人々との出会いがあっただろう。

第3期の最後の年の4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。この時放った言葉が「板垣死すとも自由は死せず」だったという。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けた。

11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国。この時期は試練数0の時代であり、比較的好きにできた時代だっただろう。

この洋行はいろいろと波乱含みだったがそれはここでは触れないことにしよう・・・。

 

第4期(46歳以降)

【頂点数;6】 他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。

【試練数;4】 忍耐力を鍛えられる。

それまでの確執やこだわり、対立などを超えて、大局に立ち活動した。1896年、議会内で孤立していた自由党が第2次伊藤内閣と協力の道を歩んだことや、1898年、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣したことからもそれは伺える。

1919年、7月に肺炎でお亡くなりになるが、これはスペイン風邪が原因だったのではないだろうか?

幕末から維新を駆け抜けた人生を送り、明治日本の主要な人物だった板垣公、82歳という長寿に達し、天寿を全うしただけでもとんでもなく強運な御仁だったと思う。

 

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迅衝隊(前列左から伴権太夫板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田清廉、吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉、真辺正精、西山榮、北村重頼、別府彦九郎)

 

 

あとがき

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 板垣退助公はもともと乾姓を名乗っていて、本来は武田信玄重臣であり、武田四天王でもあった板垣信方が祖であったようだ。

 

 戊辰戦争では土佐藩士による迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。その際、甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視らの助言を得て、板垣氏に姓を復したという。

 

 この策が講じて甲州勝沼の戦いでは近藤勇の率いる新選組を撃破、その後、江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召し抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのに絶大な効果があったそうだ。

 

 東北戦争では、三春藩無血開城させ、二本松藩仙台藩会津藩などを攻略するなどの目覚ましい軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増されている。

 

 官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れたという。 

 

 板垣公は自由民権運動の旗手と見なされているのだが、このように、当時においては軍事的才能のほうを高く評価されていて、将としては、第一位が西郷隆盛、第二位が板垣退助、第三位が山縣有朋という維新の志士たちの認識だったそうだ。

 

 西郷もある時、『今の時において、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねられ、即座に『それは板垣じゃ』と答えたという説話が残っているほど。

 

 しかしながら、なぜ軍人として活躍の道がなかったかというと、当時の土佐藩薩摩藩長州藩に対抗できるだけの力がなかったからだったとか。 

 

 いずれにせよ政治家は板垣公の天職だったのだ。有能な軍人にもなることができた人だが、№9がそれを許さなかったのだろう。

 

 世のため人のために生きる道こそが№9の人生だからだ。

 

 

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板垣信方



 

 

※MEMO

 

 A;誕生数

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大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ大阪府大阪市中央区北浜)

 

 

 

※参照

 

ウィキペディア 板垣退助

ja.wikipedia.org

 

「自由」に生きた土佐の悪童 板垣退助

www.japanserve.com

 

板垣退助 いたがき たいすけ

kotobank.jp

 

板垣退助国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)

japanknowledge.com

 

板垣退助の功績とエピソード

www.japankochi.com

 

100円のお札に描かれたあの人物! 自由党を組織し自由民権運動を主導した『板垣退助

benesse.jp

 

自由民権運動

ja.wikipedia.org

 

【寄稿・偉人伝の裏側を見破る】

www.snsi.jp

 

秘秘術で偉人をリサーチ 奥保鞏【誕生数⑧ 日本】Research the great with numerology "Oku Yasukata" 【№⑧ JAPAN】

秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

 

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奥保鞏(おくやすかた)【誕生数⑧日本】

 

 数秘術で偉人を分析シリーズ、8人目は日露戦争の司令官のひとり奥保鞏。実績の割には知名度が低いように思えるが、とんでもなく凄い人だ。どれだけ凄いかというと、長州征討で長州藩に刃向った小倉藩出身にも関わらず、長州、薩摩出身者以外で初めて元帥に昇進したことからも、それはわかる。

 

 奥元帥は豊前小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保の長男として、小倉(福岡県北九州市)に生まれる。幕末は主家が幕府側だったため、主家に従い長州征討に参加した。

 

 その後、陸軍に入営し、鎮西鎮台に所属。佐賀の乱台湾出兵、神風蓮の乱、西南戦争日清戦争日露戦争に従軍し、人生の2/3は戦陣とともにあったという、まさに筋金を入れて、それをさらに極限まで鍛え上げたかのような武人だった。

 

 その誕生数は【8】。誕生数8の人は華やかな人生を送る人が多いが、大砲や鉄砲の弾丸、刃の切り合う音、敵味方の兵士たちの咆哮がこだまする・・・そんなある意味華々しくも賑々しい戦場を常とした奥元帥は、まさに誕生数8を地で行った一生だった。

 

 元帥まで昇進したことは異例中の異例だったようだが、それは奥元帥の古武士然とした謙虚な人間性もあったようだが、その指揮統帥能力が超越していたことによるようだ。当時の軍司令官の中で、参謀の補佐なく作戦遂行できるのは奥だけ、と言われていた。

 

 つまり「余人をもって代えがたい」というほどの人物だったのだ。

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(29才、38才、47才前後)

 

 ※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。

 

 

奥保鞏(おくやすかた1847.1.5〜1930.7.19)

 

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誕生数; 8】1847.1.5  →2.6.8  &5

物腰はソフトで調和を重んじる。何事にも柔軟で臨機応変に対応でき、上層部からの指示は素直に実行に移しただろう。全体と細部を把握できる人であり、指揮統率能力が秀でていた。ここぞというときは冒険に打って出るような作戦も実行しただろう。大局を捉え、バランスの悪いところを見抜き、そこを勇猛果敢、徹底的に攻めただろう。古武士のような謙虚な性格だったたと言われるが、戦法は強気で熾烈かつ冒険的なものが多かったのではないだろうか。一見穏やかな風貌と印象を人に与えるが、人一倍エネルギッシュであり、内面には熱い闘志を秘めていただろう。

 

 

 

【頂点数と試練数】36-8 = 28

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第1期(28歳まで)

【頂点数; 6】他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。

【試練数; 4】忍耐力を鍛えられる。    

15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぎ、馬廻・知行300石となって七郎左衛門と改名。小姓、物頭を務める。佐賀の乱に出陣した時は、弾丸が胸と腕を貫通したにもかかわらず、そのまま部隊を指揮したという。

 

 

第2期(29歳〜37歳)

【頂点数; 7】精神的な深まり。魂の進化を促される。

【試練数; 3】自己表現への欲求が高まる。          

西南戦争がその後の人生に与えた影響は大きかっただろう。この戦争の時、奥元帥は熊本城に籠城していたが、その時のメンバーは谷干城児玉源太郎樺山資紀、川上操六、大迫尚敏、小川又次という、その後の日清日露等の戦役で重要な役割を担った士官たちだった。

その後このメンバーは時折集まって桜鍋を囲んで当時の思い出話を語り合っていたという・・・。彼らはつまりソウルメイト。死地を共にした仲間同士、精神的な絆は深まり互いの魂は進化しただろう。

このときの西南戦争では奥元帥は決死隊を結成して薩摩軍の包囲を突破した。その際に銃弾が頬を貫通するも、左手で傷口を押さえ、右手で軍刀を振るって指揮を執り続けたたという。

この突破作戦が当時の錦絵に描かれ奥元帥の錦絵が飛ぶように売れたという。つまり敵包囲陣を突破するという試練によって自己表現がなされた=奥元帥の評価が高まった。

 

 

第3期 38歳〜46歳)

【頂点数; 4/13】第1期、第2期の経験により評価が高まる。

【試練数; 1】来たるべく日清日露の戦役の指揮官となるべく鍛えられた。                

38歳になった年の5月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長に着任。その後、近衛歩兵第1旅団長、東宮武官長、近衛歩兵第2旅団長を歴任。

 

 

第4期(47歳以降)

【頂点数; 3】いろんなことに挑戦する。様々な人との出会い。

【試練数; 1】不可避となった日露の戦役の指揮官となるべく鍛えられた。

48歳になった年の8月、軍功により男爵を授爵し華族となる。

47歳になった年の2月から9月まで欧州出張。11月第5師団長に任命され日清戦争に出征。

55歳の時、インドに出張。翌年3月に帰国。

59歳の時、参謀総長に就任。

60歳、伯爵に叙せられる。

64歳、元帥府に列せられる。

65歳、議定官に就任。

83歳、薨去

 

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1897年頃の写真

 

あとがき

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 日露戦争の時の奥元帥の副官がみた奥元帥の印象は、 『見た目は全くの田舎の爺様であり、まったく才能があるようには見えなかった。どこにもでもいる平々凡々な寡黙な人物としか瞳には写らなかったが、そこに居る人物は自分を捨てて全軍の中枢になる責任感の強い軍人であった 』という。また日露戦争の功労による下賜金を自分のものにせず、部下に与えたという。  

 

 西南戦争では熊本城に籠城、決死隊を結成し、薩摩軍の包囲を突破、官軍が陣を張る熊本城の南約15㎞地点の木原山に辿りつき連絡をとることを成功させた。包囲を突破する際に銃弾が頬を貫通したが、左手で傷口を押さえ、右手で軍刀を振るって指揮を執り続けたという。これにより勇猛果敢な軍人だと有名になった。

 

 また奥元帥は難聴だったようで、筆談でやりとりしていたそうだ。ヴェートーベンが耳が聞こえなかったのに偉大な作曲家だったように、奥元帥も難聴だったが故に、戦場のちょっとした気配や敵指揮官の心理や意図が手に取るように読めていたのかもしれない。

 

 奥元帥は言うなれば”静寂の猛将”だ。その戦ぶりは穏やかな人物像とは逆で、非常に苛烈で強気のように思える。それは佐賀の乱のとき弾丸が胸と腕を貫通したが、そのまま部隊を指揮したり、西南戦争の時も負傷したまま戦闘を続け、日露戦争の南山の戦いの時は、味方劣勢となり大苦戦となったが、奥元帥は攻撃を断念せず苛烈に攻めたことからうかがえる。

 

 もし南山の戦いで奥元帥が攻撃を断念していたら南山を占領するのに多くの日数を費やすことになり、その後の戦局は違ったものになっていたかもしれない。もしかしたら奉天会戦まで日本軍は物資も兵員ももたなかったかもしれない。

 

 その人となりは謙虚で、古武士然として奢ることも威張ることもなく、自分の功績は自慢するどころか逆に意図的に隠していたという。一生武人であることを貫き、台湾総督の後任を打診されたた時も、「政治には関与しない」とアッサリ断わった。

 

 ただ相当な酒好きだったようで、夜に部下が自宅に来た時などは翌朝まで飲み明かすこともよくあったり、自宅に人を招いて食事をする際は、まず「今夕は何の風情も無いが、何とぞ鶏鳴までゆるゆるお飲み願う」と挨拶したそうで、来客は皆この挨拶に度肝を抜かれていたという。

 

 しかしながら20歳前後のときから60歳手前になるまで、多くの激戦の戦場に立ちながら、83歳という当時にしてはものすごい長寿で天寿を全うした奥元帥という人物は、とんでもなく強運だったと言える。

 

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※メモ

 

 

 A;誕生数

 

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※参照

 ウィキペディア奥保務

ja.wikipedia.org

 

奥保務

www.sakanouenokumo.com

 

古志山人閑話

1pen1kyusho3.blog.fc2.com

 

 

vic.paradwiki.org

 

 

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