KATAZINO’s blog

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数秘術で偉人をリサーチ 大久保利通【誕生数② 日本】Research the great with numerology "Okubo Toshimichi" 【№② JAPAN】

秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology 

 

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大久保利通(おおくぼとしみち)【誕生数②/11 日本】 

数秘術で偉人をリサーチ、ふたり目は明治維新の三傑の一人。大久保利通公です。なぜふたり目にご登場かというと、ただたんに誕生数が②だったから。

そしてなんと今日は『建国記念日』。かつての『紀元節』。この日に大久保公の歩んだ人生を振り返り、ブログにアップすることになるとは・・・。なんだか不思議なシンクロニシティです。

なぜなら明治維新は日本を封建国家から近代国家にリノべーションしたとも言え、まさに日本を再建国したとも言えるからです。 その維新後の新政府の中心人物こそ、大久保利通公だったのです。

明治維新から140年が過ぎ、大東亜戦争終戦から70年が過ぎ・・・日本は70年ごとに大変革が起こっているのですが、風雲急を告げる2020年2月現在、明治維新大東亜戦争と同レベルの出来事がヒタヒタと迫っているのかもしれません・・・。

大久保公の 誕生数は②。同じ誕生数の人は大久保公と同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(35才、44才、53才前後)

※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。

 

 

大久保利通(おおくぼとしみち1830.9.26~1878.5.14

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【誕生数;2/11】 1830.9.26 ⇒ 3.8.2 & 8

現実的な処理能力が恐ろしく高く、当然仕事は人の2、3倍以上もできるうえ直観力も優れ、かつ常に大局と細部の両方を把握し、なんでもお見通しという恐ろしい人物だっただろう。

物事の展開を見通しかつ冷静に熟考する理論家でもあり、判断を下したら徹底的に実行したが常人は理解できなかっただろう。卓越した統率力と義理堅く情が深く面倒見も良い懐の深さも持ち、畏怖されると同時に信頼され頼りにされていただろう。名実ともに明治新政府の柱石であり明治天皇の信頼も厚かった。まさに明治維新を遂行するためにこの時代に生まれてきたかのようだ。

感情の浮き沈みは激しかったかもしれないが人前ではそれをおくびにも出さなかったようだ。家に帰ってから大変だったらしい。 

 

【運命数;6】OKUBO TOSHIMICHI ⇒ 3.3.6

名前の数字が持つエネルギーは、明るく陽気で社交的、話すことや人を楽しませることやイタズラが大好きで、気難しくて生真面目で冷徹とかいう世間一般のイメージとは違い、楽観的でユーモアにあふれる人物というもの。ただ35歳で改名しているため【3】の影響は軽微だったか。人一倍家族を大事にする人であり、優れた芸術的センスを持ち、美しく調和した環境を愛しただろう。そういう美しい環境を提供するため一生懸命働いた。欧米諸国を外遊してきた彼の目には、維新後の日本と言う国の有り様がお世辞にも美しいとは言えなかったからかもしれない。 

 

【実現数;8】 2+6=8

他者の期待に応えたいと思い努力を惜しまない。対立やストレスは避けようとする。自分のことは二の次にして働こうとするので周囲から尊敬される。バランス感覚に優れ、責任感が強いため、あれこれ引き受けすぎでオーバーワーク気味だったかもしれない。

 

【頂点数と試練数】 36-2=34

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【第1期】 第1期は35歳の誕生日の前日まで。1850年(20)お由羅騒動に巻き込まれ、父は島流しになり金銭的に困窮した。

 31歳になる1861年に御小納戸役に抜擢された。この役は殿様の側近くに仕えあらゆることを手伝う仕事で異例の抜擢だったという。1863年10月(33)、江戸で薩英戦争の後始末を行う。同年、御側役に昇進。1864年7月(33)蛤御門の変勃発。その後第一次長州征伐。幕府が勝利したため幕府の力が盛り返した。以降、幕府の力を抑えることが目標になった。

 

【第2期】 1865年(34~35)は薩摩と京都の間を3往復し幕府と朝廷に精力的に働きかけた。薩摩藩の一家臣にすぎなかったがすでに薩摩藩の主役として働くようになった。藩の当局に自分の行動は状況に応じて自由にさせてくれと、申し入れたという記録が残っている。

 1871年11月(40)~岩倉使節団の副団長として欧米諸国を訪問。イギリスの産業の近代的な素晴らしさに驚嘆し、1873年3月15日(42)ドイツではビスマルクの屋敷に招かれ、鉄血宰相として国際政治をくぐり抜け、ドイツ統一を果たした彼の経験と教訓に傾聴した。

 第2期の最後の年、43歳になったばかりの1873年10月14日、征韓論閣議西郷隆盛たちと対決。閣議は西郷支持の決着となるも、明治天皇征韓論反対を受け入れたため征韓論派は全員辞職。この事件は維新後最大の危機だったとされる。

 事件後、大久保の政敵はいなくなり、気がつけば政府の第一人者となっていた。1873年年11月内務省を創設し初代の内務卿となり独裁的な権力を握った。

 

【第3期】 1878年5月14日(47)暴漢に襲われ死亡するまでの4年間は、殖産興業に力を注ぎ多くの産業を立ち上げ、自ら総裁となって万国博覧会を開き、台湾出兵講和条約の全権大使とし北京へ赴き交渉をまとめあげ、西南戦争の指揮を執りこれを鎮圧するなど、新政府唯一無比の柱石として、権力を一手に握り、超人的な仕事ぶりで日本の近代化を怒涛のごとく強力に押し進めた。

 

 

あとがき

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 維新後の日本の幸運は、国家権力が大久保公の掌のうえに転がり込んできたことにあり。

 公は私利私欲に走ることなく、また同郷の人間だけを重用するようなこともなく、ただただ純粋に日本が繁栄し、一日も早く近代国家の一員となり、お隣の清のように欧米諸外国の植民地にだけはならないようにと、己の時間体力精神力気力のほとんどすべてを国に捧げた。時には私財を投じて国の予算がつかなかった事業を行っていたほどだった。公が亡くなった時、残った財産(現金140円)より借金(8000円)のほうが何倍も多かったことや私有財産もすべて抵当に入っていたことが証明している。

 ※当時の8000円は現在なら約2億円。

 

 まさに大久保公がいなければ、日本の近代化は軌道に乗ることができなかった。それどころか空中分解してもおかしくなかったように思える。

 

 もっと評価されてしかるべき偉大な人物だ。

 

 

 

※MEMO 

 

  A;誕生数

 

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  B;運命数

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 C;実現数

   実現数 = 誕生数 + 運命数 = 2 + 6 = 8  
 


 ※参照
 ja.wikipedia.org

ktymtskz.my.coocan.jp