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数秘術で偉人をリサーチ 夏目漱石【誕生数⑥ 日本】Research the great with numerology "Natsume Soseki" 【№⑥ JAPAN】

数秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

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 夏目 漱石(なつめそうせき)【誕生数⑥ 日本】

 

 数秘術で偉人を分析シリーズ、6人目は夏目漱石

 

 本名は夏目金之助。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、華やかで恵まれた人生を送った、と誰もがイメージしている偉人ですが、その生涯は意外にも過酷なものでした。

 

 名主の家に生まれますが、時は明治維新後、家は傾きつつあり、里子に出されたり養子に出されたりかなり苦労しています。20歳の時には長兄、次兄を相次いで亡くし、24歳の時は、慕っていた三兄の妻と死別と、次々に近親者を亡くしています。

 

 漱石自身も子供の頃から疱瘡を病んだり、腹膜炎(虫垂炎)のため大学予備門を落第したり、厭世主義、神経衰弱に陥ったり、留学中のイギリスでは肺結核にかかったり、胃潰瘍には一生苦しめられます。

 

 漱石の作品は、世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれましたが、漱石自身にはそんな余裕などなく、常に病気に悩まされていたのです。

 

 漱石のすべての作品は、そんな精神的肉体的に苦しみもがいた中から生み出されたものだったのです。大学予備門は腹膜炎で落第するものの、以後はほとんどの科目で首席と、成績は超優秀でした。特に英語が頭抜けて優れていたそうです。
 
 夏目漱石の 誕生数は⑥。

 

 なお⑥は⑥でも㉝というマスターナンバーでもあります。

 

 加えて誕生日の2月9日は⑪、生まれ年の1867年は㉒であり、誕生数を構成するナンバーがすべてマスターナンバーだという、スケールが大きく、かつ特殊な人生を送るべくこの世に誕生してきた人だと言えるでしょう。

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(31才、40才、49才前後)

 

 ※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。

 

 

夏目 漱石(なつめそうせき 1867.2.9~1916.12.9)

 

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【誕生数;6/33】1867.2.9 → 4.2/11.6/33 & 9

 品行方正、謙虚で礼儀正しく、自己中心的要素がまるでない性格。常に自分より他者を優先し、誰かの役に立つこと、サポートする行動をとってしまう。自己犠牲、自己奉仕であることがデファクトスタンダードの人。ものすごく感受性が繊細、普通の人が感知しえない感覚があっただろう。霊能者であったかもしれない。

 誕生数を構成する数字がすべて11、22、33というマスターナンバーであり、生まれ日も9というスピリチュアルな数字であるため、普通の平凡なありきたりな幸せな人生など送れるはずはない。

 そのかわり文豪として歴史に名を刻み、後世に大きな影響を与えた。33の6のナンバーを持つ人は、33歳の時に大きなイベントが起こるが、漱石はこの年、イギリスに留学することになる。

 

 

【頂点数と試練数】 36-6=30

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第1期

【頂点数;2/11】 協力の時代でありスポットライトが当たる。

【試練数;7】 深刻な状況も訪れる。深いスピリチュアルな問題に直面する。

幼少の頃は里子や養子に出されたりして苦労したが、頭脳明晰であったため帝国大学英文科に進学する。同窓生だった正岡子規との出会いから文学的人間的影響を受ける。その正岡子規の家で作家になるきっかけとなる高浜虚子と出会う。俳句結社『松風会に参加』したり、俳壇でも活躍し、名声を上げていく。

一方、この時期に身内を立て続けに亡くす。とくに三兄の妻、夏目登世には恋心を抱いていたそうで心に深い傷を負ったという。この時期すでに厭世主義、神経衰弱に陥り始めていたようだ。


第2期

【頂点数;4/13】 第1期の経験により評価が高まる。

【試練数;5】 外側の世界での成長を目指し励むよう仕向けられる。

第1期での経験が花開き文学者としての評価が高まった。31歳の年、俳句結社『紫溟吟社』を興し俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。1905年1月『吾輩は猫である』を発表。続く1906年4月『坊ちゃん』を発表。一方、試練数5にあるように、イギリスに留学し国際的視野を得ることになった。

 

第3期

【頂点数;6】 他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。

【試練数;2】 耐え忍ぶ状況。

第3期の最初の年、40歳になったすぐの4月に、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。

養父の塩原昌之助には、漱石朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続いた。1908年3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。 

この時期精力的に作品を発表するが、年々病気がちになっていく。肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。職業作家という生き方が、漱石の神経をすり減らし胃腸にダメージを与えていたのかもしれない。

 

第4期

【頂点数;6】 他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。

【試練数;2】 耐え忍ぶ状況。

第4期の最初の年の12月9日、午後7時前、胃潰瘍により死去。

 

 

※MEMO

 

  A;誕生数

 

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※参照

 

ja.wikipedia.org