数秘術で偉人をリサーチ 副島種臣【誕生数① 日本】 Research the great with numerology "Soezima Taneomi"【№① JAPAN】
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副島種臣(そえじまたねおみ)【誕生数① 日本】
副島種臣・・・。名前は聞いた事がある、という人は多いと思うが、どういう人生を送った人かと聞かれれば・・・イマイチすぐに思い浮かばない人が多いのではないだろうか。
思いだすのは、たしか佐賀出身だったような・・・ということくらいかも。
だがしかし副島公の足跡は偉大だ。賢者の域に達している人だ。奇しくも江藤新平とは同じ佐賀出身で、誕生数も同じ№①だが、二人の運命はまるで違ったものとなってしまった。
面白いことに今回気づいたが、征韓論の中心メンバーの多くが№①だということだ。江藤新平に副島種臣、後藤象二郎も。
木戸公とはソリが合わなかったらしいが、二人の育った環境はよく似ている。キャラクターが被っていて同族嫌悪だったのだろうか。副島公は木戸公ほど武の面においてずば抜けてはいなかったが、学問の環境では副島公のほうがより恵まれていたかもしれない。父親も兄も藩校の教授という教育環境にあったからだ。
そんな偉大な副島公だが、公をそこまで成長させたのは、神童と呼ばれ天才児であり、水戸の藤田東湖と東西の二傑と並び称されていた兄、枝吉神陽、さらには藩校「弘道館」の教授だった、父、枝吉南濠の存在が大きかっただろう。
両者とも副島公にとってはあまりにも巨大すぎる壁だっただろう。だが公はそれを乗り越え、そしてそのすべてを取り込み、さらに大きな器の人物となった。マリア・ルス号事件、日清修好通商条約の改正は公の偉大な功績だ。
また公は樺太を200萬圓で買い取ることを上奏していたが、叶わず、それが成就しなかったことを一生後悔していたという。
征韓論では、板垣退助と共に遣使を出張したが、西郷たちと共に下野した。佐賀に戻ることは板垣に説得され留まったが、江藤新平は佐賀に戻り、佐賀の乱の首謀者に担ぎ上げられ、無慈悲な形で最期を迎える。ここが二人の運命の分かれ道となった。
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(36才、45才、54才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
副島種臣 (1828.10.17~1905.1.31)
年譜
1834(6) 藩校「弘道館」に入学。
1848(20) 兄、枝吉神陽が江戸から佐賀に帰郷して弘道館教諭に就任すると、種臣は内生寮首班となる。
1850(22) 「義祭同盟」を結成すると兄と共に主催。
1852(24) 皇学研究の為に24歳で京都に留学。
1853(25) 黒船来航を京都で知り、1855年に藩命により再び京都に留学。
1859(31) 父が死去。この年に、佐賀藩士・副島利忠の養子となり、律子と結婚。謹慎を解かれると、弘道館教諭を命ぜられる。佐賀藩に蘭学寮を設けていた藩主・鍋島直正が、新しく英学塾・変学稽古所(後の致遠館)を開校するに当たり、督学の任に当たるように勧められ、これを受諾。
1862(34) 兄、枝吉神陽(えだよししんよう)が 41才でコレラで死去。
1865(37) 長崎五島町に致遠館を開校すると、佐賀藩はフルベッキを招いて英学を講究。副島は和漢学を教える傍ら、フルベッキに就いて英語を学ぶ。
1867(39) 3月脱藩。長崎に滞在していた土佐藩士・後藤象二郎の旅館を訪れて、江戸幕府将軍・徳川慶喜に「大政奉還」を建言する為、長崎から大坂に行く土佐藩の「朝日丸」に乗り京都へ上った。この時、大隈重信も同行した。
1868(40) 明治元年3月13日には明治新政府から徴士・参与への任命を受ける。副島は輔相・岩倉具視の下で、藤川三渓と共に奥羽征討軍監となり、佐賀藩は寡兵ながら奔走した。
太政官の職制発足と共に、参与兼制度事務局の判事となり、朝臣となる。議定・鷹司輔煕、同局判事・福岡孝弟と共に「政体書」を起草した。
1869(41) 明治2年5月13日に輔相・議定・参与の公選が行われ、副島は木戸孝允の42票に次ぐ31票で参与に任命された。
佐賀藩では、同年に藩政改革が進められ、久米邦武の起草で藩治改革が成り、藩主・鍋島直正の下に副島は参政、江藤新平が参政格に任命された
版籍奉還が行われた後の7月8日に「職員令」が制定されると、前原一誠と共に最初の参議に任命され、後に広沢真臣が加わり3人の参議による政治体制が明治3年(1870年)2月まで続いた。
1870 参議と大学御用掛を3月まで兼任した。
1871(43) 5月13日に樺太境界談判のため田辺太一を随員としてロシアのポシェット湾へ派遣されるが、ロシアがビュツオフを駐日代理公使に任命して談判することと変わり、副島は200萬圓で樺太全島を買収することを上奏して黒田と対立した。11月4日に、岩倉具視が洋行(岩倉使節団)するに当たり、後任の第3代外務卿に就任。
1872(44) 明治5年5月、留守政府の井上馨は日清間に両属的地位にある琉球に対して内地同様の制度を及ぼすことを建議。副島は尚泰王を藩王に封じ、華族に列し、外交を留めることを要請した。9月3日に東京に着いた琉球使節一行と懇談。9月15日、正院に琉球藩属体制を建議した。
6月4日、マリア・ルス号が横浜港に寄港(マリア・ルス号事件)すると、副島は太政大臣・三条実美から全権委任を受け、神奈川県が裁判に当たるよう県令に指令した。
8月8日に、ペルー国使節・アウレリオ・ガルシア・イ・ガルシアと会談し、ペルー国との和親貿易航海仮条約十ヵ条を調印した。
1873(45) 明治6年、前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵)の処理も含め、特命全権大使に任命され清国に赴き日清修好条約の批准を交換した。3月19日に鹿児島に上陸して西郷隆盛を来訪し、次いで20日に島津久光の招きに応じた。
6月29日、副島は大礼服を着し、鄭永寧を率いて轎に乗り宝均・毛昶熙の導きにより紫光閣にて穆宗同治帝と単独謁見した。
10月14日に太政官代でいわゆる征韓論争の閣議において、副島は板垣退助と征韓派を代表する形で遣使を主張。しかし、10月23日に西郷隆盛の遣使中止が岩倉具視によって決定されると、西郷に続いて板垣退助・後藤象二郎・江藤新平と共に24日に下野した(明治六年政変)。
副島は江藤新平と共に佐賀帰県を促されたが副島は板垣退助に説得され留まった。
1874(46)4月 佐賀の乱が鎮圧される。
1875(47) 明治8年10月、外務省事務総裁を仰せ付けられる。
1876(48) 明治9年9月20日、霞が関の自宅を売却し、従者一人を連れ「東京丸」で横浜を出帆し、神戸で楠木正成を祀る湊川神社に参拝。長崎を経て上海に渡った。
1878(50) 明治11年、清国から帰国した。訪問地は上海、蘇州、杭州、天津、北京、西湖では岳飛の墓に参り、満州、漢口など。
1881(53) 曽根俊虎から頼まれ、明治14年(1881年)5月から12月まで興亜会の会長を務めた。
1887(59) 明治20年に宮中顧問官。
1888(60) 明治21年に枢密院が発足すると、枢密顧問官となる。松方正義が第1次松方内閣を組閣すると、枢密院副議長から転じて内務大臣に就任したが、白根専一との対立の為3カ月に満たずに辞任し枢密顧問官に復帰した。
1891(63) 明治24年に「東邦協会」が発足すると、賛同者に推されて会頭となる。
1892(64) 明治25年に東邦協会附属私立露西亜語学校の評議員も務めた。
1905(77) 明治38年1月31日、脳溢血のため死去。
【誕生数;1】 1828.10.17 → 1.9.1 & 8
生来、度胸があり肚が座っている一方、非常に繊細な感性をあわせ持つ。自分に誇りを持つ高潔な人格者であり独立独歩の人であった。他人からあれこれ指図されるのは嫌いだっただろう。全幅の信頼を受け、全て任せられると実力以上の力を発揮するタイプだ。
大雑把で面倒くさがり屋な面と緻密な管理統率力の持ち主。物事の大局と細部が見える人で、常に全体を把握し、状況を冷静に分析し、決断を下し、行動に移しただろう。地球規模で世界情勢を俯瞰できていただろう。間違ったことや平等でないことフェアでないこと、人種差別的な事が許せないヒューマニストでもあった。その繊細な感性は数多くの優れた書や漢詩を生み出した。
征韓論で下野したあと、板垣に説得されて佐賀に戻ることを思いとどまったそうだが、板垣も①⑨⑧という同じ数字を持っているので他人とは思えないくらいフィーリングが合っただろう。
【頂点数と試練数】 36-1=35
第1期(35歳まで)
【頂点数; 9】学びを統合し恩返しをする時。
【試練数; 7】深刻な状況も訪れる。深いスピリチュアルな問題に直面する。
相当シビアに精神面を鍛えられただろう。
神童と呼ばれた兄、枝吉神陽。藩校弘道館教授だった父。物心ついたときから常に周りから期待や比較の念を飛ばされてきたであろう。性格も人一倍センシティブだったはずで、その思いを敏感に感じていたことだろう。だがこの虎の穴のような環境は、将来、明治日本を背負って立ち、世界に通用する一流の人物を育てるには最高だった。繊細だったが負けず嫌いで冷静な理論家でもあり、メンタルも強いタイプでもあったため、周囲の念に押しつぶされることなく、逆に押し返し、乗り越え、天賦の才能を花開かせた。とはいうものの幼年時代のコンプレックスは相当なものだったようだ。21歳にして「弘道館首班」となったが、その陰では凄まじい努力を積み重ねたように思う。
第2期(44歳まで)
【頂点数; 9】学びを統合し恩返しをする時。
【試練数; 7】深刻な状況も訪れる。深いスピリチュアルな問題に直面する。
第1期と同様で同じ試練が続くが、同時に第1期にさらに輪をかけて、出来事がスケールアップ、インターナショナルになっていった。人間的にもどんどん器が大きくなっていった。44才から45才にかけて、たて続けに大事件が起こる。それはまるで第1期、第2期の卒業試験のようであり、第3期にさらにスケールアップして活躍できるように経験を積ませるためにやってきた試練のようだ。
第3期(53歳まで)
【頂点数; 9】学びを統合し恩返しをする時。
【試練数; 0】試練は特にない。
人間的成長を促される環境は続く。引き続き国際的な活躍の場が訪れた。
51才の年、明治天皇に大学中庸尚書を進講した。ご進講は58才の年まで続いた。45才以降は特に試練はなく穏やかな晩年を過ごす。薩摩閥の黒田清隆からは目の敵にされていたようだ。
第4期(54歳以降)
【頂点数; 2】協力と奉仕の時代。
【試練数; 0】試練は特にない。
他者をサポートする役割。
多くの人々から頼りにされ、社会的な役割は続いた。
あとがき
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同じ誕生数を持ち、同じ肥前佐賀藩藩士として育った副島公と江藤新平の大きな違いはなんだったのか?
それは、第一は、“運”の違いのように思える。
副島公はかなりの強運の持ち主だったようだ。加えて先祖代々の徳、つまり家運というのもあったように思う。生家の枝吉家は代々槍術師範を業として佐賀藩に仕えていた家でもある。
一方、江藤には悲しいかな、それが足らなかったように思える。江藤家は積善の家ではなかったのかもしれない。江藤の父は、武士であったが、職務怠慢で永蟄居という処分となっていて、そのため江藤家は非常に困窮した時代が続いた。父親が家代々の徳というものを棄損させてしまったのかもしれない。
もう一点、大きく異なる点は、副島公は、試練数という数字が人生の第3期以降【0】だったということだ。試練数が【0】ということは特に試練がないということ。高橋是清公も、人生の第3期以降の試練数が【0】だったが、226事件で凶弾に倒れたとはいえ、当時としては82才という長寿でこの世を去った。226までは、大臣を歴任し、社会から必要とされ、忙しくも家族に囲まれ、幸せで穏やかな日々を過ごしていた。
副島公は明治天皇にご進講するという栄誉を賜り、人々から必要とされ、幸せな晩年を過ごし、天寿を全うし、江藤は壮年の盛りに志半ばで斃れた。
副島公は書道家としても有名で、“蒼海”という名で多くの作品を残している。その作風は自由闊達で今なお評価が高い。佐賀新聞の題字は副島公の書いたものだという。
漢詩も中国人から褒められたほどの才で、「蒼海全集」に2000を超える漢詩が含まれているという。
一番左の人物が副島公
※MEMO
A;誕生数
※参照