KATAZINO’s blog

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数秘術で偉人をリサーチ “明石元二郎” 【誕生数②/⑪ 日本】 Research the great with numerology "Akashi Motojiro"【№②/⑪ JAPAN】

数秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

 

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明石 元二郎(あかしもとじろう)【誕生数②/⑪  日本】

 

 近年、日本でもスパイ防止法の成立や、日本版諜報機関の設立を求める声が高まっているが、じつは日本は過去において十分な伝統と実績を持っている国なのだ。

 

 戦国時代、忍者が戦国大名諜報機関として活躍していたことは知らない人はいない。伊賀に甲賀に風魔、紀州根来衆、透破、鳶加、黒脛巾組、鉢屋一党、佐賀の細作などいろいろ存在していて、源平時代にすでに忍者組織はあったようだ。

 

 明石総督も世界のスパイ業界では伝説中の人物で、各国のスパイ養成機関の教科書に100%載っているという。

 

 また明石総督は台湾との関わりも深い。台湾も現在、世界中の注目と関心を集めているが、”スパイ” ”諜報機関” ”台湾” この三つのキーワードすべてに明石総督は深く関わっている。

 

 台湾総督時代は、精力的に台湾全土を視察し、台湾発展の要となる重要な決断を次々と繰り出した。

 

 だがしかし、過労とスペイン風邪で倒れ在任期間は1年4ヶ月にして帰らぬ人となってしまった。日本帰国中に亡くなったのだが、「遺骸は台湾に葬れ」と遺言していたほど台湾のことを愛していた。

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(35才、44才、53才前後)

 

 ※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。

 

 

 

明石元二郎(1864.9.1~1919.10.26)

 

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真ん中が明石総督。ヨーロッパで諜報活動中のご様子。

 

年譜

1864(0) 福岡藩士・明石助九郎の次男として元治元年(1864年)に福岡藩の大名町に生まれる。藩校修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)卒業。

 

1883(19) 12月25日、陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられた。

 

1889(25)1889年(明治22年)に陸軍大学校(5期)を卒業。ドイツ留学、仏印出張、米西戦争(1898/明石34才)のマニラ観戦武官を経験。

 

1901(37)フランス公使館付陸軍武官となる。

 

1902(38)ロシア帝国公使館付陸軍武官に転任、のちに首相となる田中義一陸軍武官から業務を引き継ぐ。

 

1904(40)日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンストックホルムに移る。開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就任。

 

1910(46)7月、寺内正毅韓国統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務。

 

1914(50)4月、参謀次長となる。

 

1915(51)10月熊本の第6師団長に転じる。

 

1918(54)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。

 

1919(55)台湾総督府から分離して独立の軍となった台湾軍の初代司令官を兼務する。10月、公務のため本土へ渡航する洋上で病を患って郷里の福岡で死去した。満55歳だった。

 

 

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【誕生数;2/11】1864.9.1 → 1.1.2/11 & 1

 全ての数字が1で構成されているという稀有な数字の持ち主。誕生数は2だが11でもある。明石総督の場合は11の働きが顕著だ。

 

 協調性に欠けていた、と評されているが、それは当然で、協調性のカケラも持ち合わせていない。だが逆に言えば、単独行動させれば右に出る者はいない、ということを意味する。

 

 事実、明石総督は日露戦争の後方攪乱という難しい仕事を、異国の地で、何年間にも渡って、たった一人で、常に命の危険にさらされながら遂行し、期待以上の結果を残した。それはまさしく明石総督にしかできなかった仕事だったのだ。

 

 その活躍は、ドイツのヴィルヘルム2世をして、「明石一人で満州の日本軍の20万人に匹敵する」と言わしめ、上司だった参報次長、長岡外史も、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評したほどだ。

 

 本当にすごいのは、明石を見出した川上操六と児玉源太郎だが、ふたりは明石の尋常ではない卓越した能力を認め、十分な軍資金(400億円以上)を与え、すべてを任せて欧州に派遣したのだ。こんな太っ腹な判断はなかなかできることではない。

 

 ①ばっかりなのでプライドは相当高かったはずで、鉄仮面みたいに無表情、かなりの自己中人間で人に指図されることは許せない性格だったと思うのだが、そういうエピソードはあまりなく、逆にきさくで人懐っこくて誰からも好かれた人間性だった、という記述が多い。

 

 これはおそらくはナンバー11の性質がそうでもあるのだが、すでに子供の頃に、プライド高く自己中心的に生きるより、逆に、ざっくばらんで、あけっぴろげに生きた方が、自分自身楽だし、身なりも適当にしていたほうが人は油断し警戒されずにすみ、人間関係もうまくいく、ということに気づいていて、そう振る舞っていたように伺える。

 

 事実、子供の頃から明石はズンダレ(だらしないという意味)だと有名で、服装は無頓着で猫の毛がいっぱいついていたり、参報本部時代でもサーベルが錆びていた、というほどだった。

 

 また、一匹狼の①なのに、よく士官学校生活や軍隊大学校という厳しい集団行動を求められる組織で、中途挫折することなく卒業できたな、と感心するが、11という頭脳明晰さのナンバーも持ち合わせていたため、規律にしたがったほうが得だと計算結果がでていたのだろう。そう、ナンバー11はすごく賢くて、冷静な計算ができるのだ。

 

 一方、金遣いはキッチリしていて、スパイ活動の予算の余ったお金を、明細書を添えて、残金の27万円(約54億円くらいか?)を返却している。使途不明金が100ルーブルあったようだが、ちゃんと申告していて、列車で移動中にトイレで落とした、と報告していたようだ。

 

 このように11は大ざっぱでズボラな面と、細かい面の両極端な性質を持ち合わせているのが特徴だ。明石総督の場合、加えて神がかり的な直観力、ほとんど霊能力のようなものを持っていたかもしれない。

 

 脳ミソがコンピューターのようで、計算力、記憶力、語学力などはずば抜けていたようだ。

 

 事実、数学の成績は砲兵科の学生より良かったり、外国語も英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語という、語学力が得意な日本人であっても難解なこれらの言語を、すべて完璧に理解し操っていたという、

 ※当時、砲兵科は弾道計算があったため、数学が得意な人間を集めていた。

 

 もう凡人の理解を超えた天才だったとしか言いようがない人物だ。

 

 

【運命数;11】AKASHI MOTOJIRO ⇒11.9.11

 運命数も誕生数と同じナンバーの【11】!!

 

【実現数;22】 11+11=22

 すべてがマスターナンバー。実現数22はやはりタダモノではないナンバーです。

特別な人が持つナンバー。

 

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少尉当時

 

 

頂点数と試練数】 36234

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第1期(35歳まで)

【頂点数; 1】人々を導くリーダーとなるべく導かれた。。

【試練数; 8】大組織のリーダーとなるべく試練があった。

よきリーダーとなるべく鍛えられた。お金の試練があった。2才の時、父が切腹。広大な家屋敷は売り払い、母の実家の世話になる。

34才の時の米西戦争で観戦武官としてフィリピンに赴いたが、この時の米軍の戦法から、後のロシア革命のヒントを得た、と言われている。

 

 

第2期(44歳まで)

【頂点数; 2】協力の時代でありスポットライトが当たる。

【試練数; 0】試練は特にない。

40才、日露戦争始まる。協力してやっていくこと、協力者なくしてはなにもできないスパイ活動に従事。試練数0の時期と重なったのはたまたまだったのか天の采配か。

 

 

第3期(53歳まで)

【頂点数; 3】いろんなことに挑戦する。様々な人との出会い。

【試練数; 8】大事業公共機関に関わる仕事。

物事を進めていく役割。韓国併合の際、現場で重責を担う。参議次長、第六師団長を歴任。

 

 

第4期(53歳以降)

【頂点数; 1】人々を導くリーダーとなるべく導かれた。

【試練数; 8】大組織のリーダーとなるべく試練があった。

リーダーシップが鍛えられる。54才で台湾総督就任。近代化のための数々の重要な決断を下し、台湾発展の礎を築いた。再びお金の試練あり。これは予算獲得には相当な苦労があったのだろう。八田与一氏のダムの予算は台湾総督府の年間予算の1/3以上にもなっていたという。台湾を代表する華南銀行も明石総督時代の設立だ。

 

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あとがき

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 明石氏は黒田官兵衛の母方の祖父、明石正風の子、安正の末裔だという。つまり福岡藩主の黒田家とは遠縁と言える。

 

 明石総督は台湾の繁栄の礎を築いたといえるのだが、明石総督の息子、明石元長氏も台湾存亡の危機の時に重要な働きをしている。

 

 中国共産党軍が台湾領の金門島に攻め寄せてきた1949年の古寧頭戦役の時、GHQに行動を厳しく監視されていた根本中将の日本出国~台湾入りを、全身全霊を捧げて助けているのだ。

 

 その肉体的疲労と心労は想像を絶するものだったのだろう。元長氏は過労のため、根本中将が出国してわずか四日後に急逝している。42才という若さで。

 

 かくして台湾は根本中将ら日本人軍事顧問団の活躍と、縁の下で命を捧げて働いた明石元長氏の働きもあり、この古寧頭戦役で中国共産党軍を撃退し、台湾全土を中国共産党政権に奪われることは免れたのだった。

 

 もしこの時、根本中将が日本を出国できず、台湾が中国共産党に占領されていたならば、世界は、特に極東アジアは、21世紀の現在でも、終わりの見えない戦乱の最中にあったかもしれない。

 

 そういう意味では今日の台湾の繁栄に明石元二郎、元長父子が果たした役割は大きなものがあると言える。

 

 その辺の事情は台湾政府もよく御存知のようで、2009年10月25日に台湾で行われた古寧頭戦役60周年式典では、当時国民党の馬英九氏が台湾総統だったが、明石元長氏の子孫は、日本人軍事顧問団の遺族とともに招待され、手厚い歓待を受けたのだった。

 

 

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台湾の台北市、林森公園にある碑石

 

 

 

 

 MEMO

 

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参照 

ja.wikipedia.org

 

 

 

www.ncbank.co.jp

 

 

www.nippon.com

 

 

rekisiru.com

 

 

www.sakanouenokumo.com

 

 

www.zakzak.co.jp