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数秘術で偉人をリサーチ “李登輝” 【誕生数④/㉒ 台湾】 Research the great with Numerology "Lí Teng-hui"【№④/㉒ Taiwan】

数秘術で偉人を分析 Research the great with numerology

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李登輝総統(1988年)



 
登輝(りとうき)【誕生数④/㉒ 台湾】
 
 台湾の政治家、農業経済学者。第4代中華民国総統(7期途中昇格・8期・9期、1988年 - 2000年)

 

 本省人初の中華民国総統で、「台湾民主化の父」と評価されるように、台湾の民主化と経済発展に尽くした。日本では「22歳まで日本人だった」の言葉や、日本語が話せるなどで親日家としても知られる。

 

 台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)埔坪村の「源興居」で李金龍と江錦の次男として生まれる。2歳年上の兄李登欽(日本名:岩里武則)は、日本統治時代(日本統治時代の台湾)にフィリピンで大日本帝国海軍二等機関兵(戦死後、「上等機関兵」)として従軍し戦死している。(大日本帝国軍人として靖國神社に祀られる。)

 

 一族は古くから台湾に住みついた客家で、父・金龍は警察官。経済的に安定した家庭環境により幼少の頃から教育環境に恵まれていた。(ウィキペディアより)

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(33才、42才、51才前後)  

 

 ※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。  

 

 

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名古屋の高射砲部隊に配属され、終戦を名古屋で迎えた。



 

 

 

李登輝(1923.1.15~2020.7.30)

 

年譜

1943(20) 

9月、台北高等学校を卒業。同年10月、現地の台北帝国大学には現地人に対する入学制限から進学することがかなわず、本土の京都帝国大学農学部農業経済学科に進学。

 

1944(21)

学徒出陣により出征する。大阪師団に徴兵検査第一乙種合格で入隊し、台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後日本に戻り、その後名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属され、終戦を名古屋で迎えた。終戦時の階級は陸軍少尉。

  

1946(23)

春に台湾へ帰り、台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。

 

1947(24)

二・二八事件が発生、李登輝は台湾人および日本人としての経歴から、この事件で粛清の対象になる可能性が高かったため、知人の蔵に匿われた。

 

1948(25)農学士の称号を得る。

 

1949(26)

台湾大学を卒業、同大学農学部の助手として採用された。

同年、淡水の地主の娘であり、台北第二女子中学(日本統治時代は台北第三高女と称し現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵と見合いにより結婚。

 

1952(29)

中美(米)基金奨学金を獲得しアメリカに留学、アイオワ州立大学で農業経済学を研究。

 

1953(30)

修士学位を獲得して中華民国に帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学講師として勤務。

 

1957(34)

中国農業復興聯合委員会(農復会)に就職。同時に台湾大学助教授を兼任した。

 

1961(38)

キリスト教に入信する。

 

1965(42)

ロックフェラー財団及びコーネル大学奨学金を得てコーネル大学に留学。同大学では農業経済学を専攻。

 

1968(45)

5月にPh.D.(農業経済学専攻)を取得。

7月に台湾に帰国、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任。

 

1971(48)10月

経済学者の王作栄の紹介により国民党に入党。

入党後は、蔣経国が行政院長に就任すると無任所大臣に当たる政務委員として入閣。

この時49歳であり、当時最年少での入閣。

 

1978(55)

蔣経国により台北市長に任命される。

 

1981(58)

台湾省主席に任命される。

 

1984(61)

蔣経国により副総統候補に指名され、第1回国民大会第7回会議選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任。

 

1988(65)

1月13日、蔣経国が死去。

憲法上任期中に総統が死去すると副総統が継承するため登輝が総統に就任。

7月には国民党代表大会で正式に党主席に就任した。

 

1991(68)

5月に動員戡乱時期臨時条款を廃止し(戒厳体制の完全解除)、初めて中華民国憲法を改正。

 

1996(73)

初めての総統直接選挙において54.0%の得票率で当選し、台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任。

 

2000(77)

3月に国民党主席職を辞任。

総統選挙では自身の後継者として副総統の連戦を推薦して選挙支援を行なうが、最終的には民主進歩党候補の陳水扁が当選、第10期中華民国総統に就任した。

野党に転落した国民党内部からは登輝の党首辞任を求める声が高まり、3月に国民党主席職を辞任した。

  

※総統職を退いた後は台湾独立の立場を明確にした。「中華民国は国際社会で既に存在しておらず、台湾は速やかに正名を定めるべき」と主張する台湾正名運動で総召集人を務め、2001年7月には国民党内の本土派と台湾独立活動家と共に「台湾団結連盟」を結成した

 

2001(78)

4月、心臓病治療のため訪日。岡山県倉敷市などを訪れた。

7月、台湾団結連盟を立ち上げ、精神的指導者となる。

9月、これが反党行為とみなされ、国民党を除名。

 

2016(93)

7月30日、石垣島を訪問し、台湾農業者入植顕頌碑などを参観し、日台交流について講演した

 

2020(97)

2月、自宅で牛乳が気管に入ったことで誤嚥性肺炎となり入院。

7月に入って体調が急激に悪化。同月29日には蔡英文総統、頼清徳副総統、蘇貞昌行政院長らが見舞いに訪れた。

翌30日19時24分頃、入院先の台北栄民総医院で死去。97歳だった。

 

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病院から総統府前を経由して火葬場に向かう車列。(2020年8月14日)

 

 

 

  

 【誕生数4/22】1923.1.15 → 6.7/16.4/22 & 6

  穏やかでソフトな物腰だが鋼の意志と信念を持つ。頭の中は常にクールでドライ、状況を分析し、何事も完璧かつ徹底的にやらないと気が済まない、手を抜くという選択肢が存在しないタイプだ。しかも誕生数の【4】はマスターナンバーの【22】でもあるので、慎重で緻密さと大胆不敵さを兼ね備え、器の大きさ、壮大なスケール感をも併せ持つ

 その緻密で正確な思考回路には、妄想や思い込みの要素が入り込む余地はなく、何事もリアリスティックに対応していく現実主義者だ。一度取掛った仕事はやり遂げるまで、粘り強く忍耐強くコツコツと継続する。しかも常に慎重であり、細部まで目配り気配りがあり、石橋を叩くように一歩一歩進んでいく。マスターナンバー【22】であるゆえ、類まれなる直観力の持ち主でもあっただろう。

 まさに台湾の民主化という”静かなる革命”は、李登輝でなければあそこまで鮮やかに、平和に、完璧に成し遂げられなかったと言える。

 

 

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中学時代
 
  

【頂点数と試練数】 36-4=32

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第1期(0~33歳の誕生日まで)

【頂点数; 7/16】

【試練数; 5

精神的な深まり。魂の進化を促される。

兄の戦死、228事件における自らが捕まる危機。孤独感。精神的に厳しい状況が何度も訪れた。自由はなかっただろう。

 

 

第2期(33~42歳の誕生日まで)

【頂点数; 3】

【試練数; 0

いろんなことに挑戦する。様々な人との出会い。楽しく物事が展開していった時代。

この時期は特に試練はなく比較的自由に生きれただろう。

 

 

第3期(42~51歳の誕生日まで)

【頂点数; 1/19】

【試練数; 5

リーダーとなるべく導かれた。自由はなかっただろう。
 

 

第4期(51才以降~)

【頂点数; 7】

【試練数; 5

政治の中枢に関わるようになっていく。精神的には一生鍛えられる状況が続く。やはり自由がない毎日。日本に行きたくてたまらなかったが2001年にやっと叶った。それは総統という重責から解放された後、やっと訪れた。
 

 

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蔡英文現総統は李登輝総統時代、安全会議の諮問委員だった。1999年李登輝発表した中台関係の新定義、いわゆる「二国論」(「特殊な国と国の関係」論)にも深く関わっている。

 

 

 

あとがき

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 現在の台湾の政権は、第二次大戦後の日本の統治権放棄後、1949年に中国大陸で共産党に負けてボロボロになった蒋介石の国民党が逃げてきたことに始まる。
 
 以来、中華文明の定石通り、台湾政治も国民党独裁のもと、汚職や賄賂、暗殺などがはびこる腐敗政治に染まった。
 
 李登輝は、そういった4000年間も賄賂やごますりなどの汚職デファクトスタンダードである中華文明圏にふたたび毒されてしまった台湾で、中華文明の歴史上初めて、民主的な総選挙を実現させ、総統に就任するという、前代未聞驚天動地の偉業を成し遂げたのだ。それは人類史に残るとてつもない大偉業だと言っていい。ご自分でも『静かなる革命を成し遂げた』と言っていた。
 
 後日、「あなたはなぜそんなことができたのか?」とインタビューされた時、李登輝は「様々な要因はあると思いますが、1番の要因は私が日本人だからです」と答えている。
 
 そう、つまり李登輝の中身は日本人そのもの。台湾で言うところの”日本精神”がその本質に宿っていたのだ。座禅も若い時からずっと続けていたという。
 まさに李登輝は古き良き日本人の生き様を体現しているといえよう。
 
 李登輝は日本時代の台湾総督府民政長官、後藤新平を尊敬していると言っていたが、それが今回のコロナ騒動で台湾がコロナを完璧に封じ込めた事とは無関係ではないだろう。
 後藤新平は台湾時代、ペストやマラリア撲滅に尽力している。日本のコロナ対策はヒドイ有様だが、後藤新平の意志は台湾にしっかり受け継がれているようだ。
 
 近年の台湾は急速に民主主義が進展しているように見える。政権交代もあり、現在ではすでに世界で最も自由で民主的な国の1つとなったといえよう。
 さらにGDP(世界の1人あたり購買力平価GDP)も、日本より高く、世界ランク18位だ。2019年は台湾は18位で57,095ドル。日本は33位で43,236ドルと14,000ドル近くも差が開いている。
 
 すでに台湾は日本以上に自由と民主主義が根付き、経済的にも日本より豊かだ。先進国と位置付けられていて、さらに今回のコロナで明らかなように、台湾の防疫体制は世界最高レベルだ。
 
 
 
 
 もし李登輝が現れなければ、台湾は今でも国民党の独裁政権のままで、汚職賄賂暗殺…と腐敗政治がはびこり、経済発展もほとんどなく、今でも開発途上国のままか、中国共産党に併合され、人々は塗炭の苦しみを味合わされ、前世紀と変わらず疫病の蔓延する島として忌避され続けていたかもしれない。
 
 李登輝は卓越した政治家として有名だが、本職は農業分野の学者だ。
 京都大学農学部農業経済学科に学び、48才のとき蒋経国にスカウトされ、55歳で台北市長になるまでは、台湾の農業の発展のため地道に仕事を果たした。その専門の農業分野の仕事でも圧倒的な結果を出し、あまりにも有能だったため放っておけない人物となっていった。
 
 今日の台湾の繁栄と親日であることに李登輝が果たした役割はとてつもなく大きい
 
 2020年も後半、アメリカの大統領選挙も目前に控え、台湾の地政学的重要性はますます高まり、さらに世界中の耳目が注がれそうだ。
 
 

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李登輝(右)と兄の李登欽。兄はフィリピンで戦死。

大日本帝国軍人として靖国神社に祭られている。

 

 李登輝の一族はもともと中国本土の客家であり、祖先は数百年前に中国の福建省から移住してきたようだ。客家は東南アジア全域に存在していて、華僑の3分の1は客家だという。李登輝シンガポールのリークワンユー、中国の元首相李鵬、香港の東亜銀行の経営者、李国宝などは同じ一族だとも言われている。李氏朝鮮の李氏は同族とも違うともいう説があるようだ。

 

客家の有名人

 鄧小平、孫文宋慶齢孫文妻)、宋美齢蒋介石妻)、蔡英文、タクシン元首相(タイ)、アキノ元大統領(11代、15代 フィリピン)劉壇祥重光孝治 台湾出身の実業家、熊本ラーメンのチェーン店の一つ「味千ラーメン」を創業した)

など

 

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・・・?

 

 

 

※MEMO  

 

A;誕生数

 

 

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※参考

 

ja.wikipedia.org

 

 

第5話 李登輝が切り開いた台湾民主化の紆余曲折に満ちた道《手向け草》(蕭 新煌) - アジア経済研究所

 

 

 

www.youtube.com

 

 


【李登輝元総統の足跡】なぜ日本で李登輝ファンが多いのか?武士道と政治哲学

 

 

www.youtube.com

 

 

www.youtube.com

 

 

www.youtube.com

 

 

ja.wikipedia.org

 

 

 

www.y-history.net