数秘術で偉人をリサーチ “エイブラハム・リンカーン” 【誕生数⑤ USA】 Research the great with Numerology "Abraham Lincoln"【№⑤ USA】
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エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)【誕生数⑤ アメリカ】
アメリカ合衆国の政治家、弁護士。名前は、アブラハム、姓はリンカンと表記されることもある。 弁護士、イリノイ州議員、下院議員を経て、1861年3月4日、第16代アメリカ合衆国大統領に就任した。「偉大な解放者 (the Great Emancipator)」、「奴隷解放の父」とも呼ばれる。
アメリカ合衆国最初の共和党所属の大統領であり、アメリカ合衆国大統領を務めた個々の人物の業績をランクづけするために実施された、政治学における調査結果「歴代アメリカ合衆国大統領のランキング」において、しばしば、「もっとも偉大な大統領」の1人に挙げられている。(ウィキペディアより)
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(32才、41才、50才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln 1809.2.12~1865.4.15)
年譜
1809(0)
2月12日、アメリカ合衆国ケンタッキー州ラルー郡にあるシンキング・スプリング農場に建てられた間仕切りされていない丸太小屋において、トーマス・リンカーンおよびナンシー・ハンクス夫妻の息子として誕生した。
1816年(7)
リンカーンの父トーマス、土地の権利証が偽物だったため、訴訟で土地のすべてを失った。
一家は貧困と奴隷制度のために、自由州(奴隷のいない州)であるインディアナ州スペンサー郡へ転居した。
1818(9)
母ナンシーが毒草を食べた牛の乳を誤飲したことでミルク病(en:Milk sickness)になり、34歳で亡くなった。
母の死後は2歳年上の姉のサラがリンカーンの面倒を見ていたが、リンカーンが19歳のときに、死産のため21歳で急逝した。
1830(21)
オハイオ川一帯でのミルク病の蔓延を恐れたリンカーン一家は、父親が選んだサンガモン川沿いのやはり自由州であるイリノイ州メイコン郡(現在のディケーター付近)の公有地に転居した。
1831(22)
父親は再度イリノイ州コールズ郡への転居を決めるが、大望ある22歳のリンカーンがよりよい生活を求め一人で生きていくことを決めた。
一人でサンガモン川をカヌーで下り、イリノイ州サンガモン郡(現在のメナード郡)ニューセイラムに移り住んだ。
同年春、ごろつき集団「クレアリーズ・グローブ・ボーイズ(Clary’s Grove boys)」の有名な首領ジャック・アームストロングの挑戦を受け、デントン・オファットのゼネラルストア(雑貨屋)でレスリングの賞金試合(創世期のプロレス)を行い引き分けたという。非常に激しい試合の展開で、その腕力と大胆さで知られるようになった。
ニューセイラムでの最初の冬、リンカーンはニューセイラム討論クラブの集会に出席した。
年末にニューセイラムの実業家デントン・オファットに雇われ、友人とともに平底船に乗ってニューセイラムからルイジアナ州ニューオーリンズへサンガモン川からミシシッピ川を下り品物を運搬した。
1832(23)
リンカーンと共同経営者がニューセイラムで小さな雑貨屋を借金で購入した。経済は上り調子だったが、事業は難しく、リンカーンは最終的に持ち分を手放した。
この年、イリノイ州とソーク族およびフォックス族インディアン連合との間で、ブラック・ホーク戦争が始まった。リンカーンはイリノイ州民兵隊に大尉として参加した
3月にリンカーンは、スプリングフィールドの印刷屋「サンガモン・ジャーナル」に持ち込んだ原稿でイリノイ州議会議員候補者になることを宣言することで、政治との関わりを始めた。
ブラック・ホーク戦争から戻ると、4月6日の選挙日に向けて運動を始めた。選挙結果でリンカーンは立候補者13人のうち8位(上位4位までが当選)だった。
リンカーンはニューセイラムの郵便局長を、さらにのちには郡測量士を務め、その間も貪欲に読書を続けた。その後弁護士になる決心をし、ウィリアム・ブラックストンの『イギリス法注釈』などの書籍を読むことで法律を独学し始めた。その学習方法について「私は誰にもつかずに学んだ」と語っていた。
1834(25)
州議会議員へ2度目の出馬を行う決断をした。8月4日の選挙ではリンカーンが第2位の得票数となる1,376票を得て当選した。
リンカーンの最初の恋は、ニューセイラムに初めて来たときに出会ったアン・ラトリッジだったとする説がある。1835年には交際をしていたが、正式に婚約することはなかった。アンはこの年8月25日に死んでおり、腸チフスだったとされている。
1836(27)
法廷弁護士として認められ、スプリングフィールドに転居した。のちに妻となるメアリーのいとこであり、ジョン・トッド・スチュアートの下で法律実務を始めた。弁護士としては、反対尋問や最終弁論では手強い相手という評判を得、有能で成功した弁護士となった。
1841(32)
1841年から1844年にはステイーブン・トリッグ・ローガンと共同で法律事務所を運営した。
1842(33)
11月4日にスプリングフィールドにあるメアリーの姉妹が嫁いでいた邸宅でメアリー・トッドと結婚した。
1844(35)
スプリングフィールドにあるリンカーン法律事務所の近くで家を購入した。
1846年(37)
ホイッグ党員としてイリノイ州のアメリカ合衆国下院議員に選出され、1期2年間を務めた。
1854(45)
10月16日のピオリアにおけるカンザス・ネブラスカ法に反対する演説で、リンカーンは奴隷制に対する反対意見を表明し、その後は大統領になるまでこれを繰り返すことになった。
1854年遅く、リンカーンはイリノイ州選出アメリカ合衆国上院議員選挙でホイッグ党候補として出馬した。
1856(47)
共和党大会では副大統領の党候補を決める投票でリンカーンは第2位になった。
1858(49)
イリノイ州の共和党大会にて、上院議員候補に指名された。この時、聖書のマルコの福音書から引いた「分かれたる家」演説を行った。高木八尺は「この演説は、後年のゲティスバーグの演説と並んで、リンカーンの生涯の二大演説と称される」としている。
1858年、リンカーンはスティーブン・A・ダグラスへの対立候補として上院議員選挙に出馬するが、選挙活動中のダグラスとの7回に及んだ、いわゆる「リンカーン・ダグラス論争」はアメリカ史の中でももっとも有名な討論となった。
1860(51)
11月6日大統領選挙が実施され当選する。
リンカーンは選挙戦の最中に11歳の少女グレース・ベデルに「ひげを生やしたほうが良い」とアドバイスされ、それにしたがってあごひげを生やした。
1861(52)
3月4日、第16代大統領に就任。
4月12日、南軍はサムター要塞の連邦軍守備隊を攻撃して降伏させ、戦端が開かれた。南北戦争が開戦した。
1862(53)
9月22日、「奴隷解放予備宣言」を布告。
1863(54)
1月1日「奴隷解放宣言」を布告。
11月19日の午後、ゲティスバーグの演説は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ゲティスバーグの国立軍人墓地の奉献式において行われた。
1864(55)
8月、別荘からホワイトハウスへの馬での出勤途上、狙撃され帽子を貫通された。
11月8日、大統領選挙が行われ再選。
1865(56)
3月4日、2期目の大統領就任。
南軍は4月9日のアポマトックス・コートハウスの戦いで敗れ、リー将軍はアポマトックス・コートハウスでグラントに降伏し、事実上戦争は終わった。
4月14日、ワシントンのフォード劇場で観劇中に狙撃され、翌朝死去。
【誕生数5】1809.2.12 → 9.5.5/14 & 3
リンカーンもまた、生まれ年以外はすべて5であり、誕生数の5はカルマナンバーの14、生まれ日は3という、
まさに政治家が天職というナンバーの持ち主だ。
生まれ日の3は非凡なる弁舌の才があることを示し、誕生数とアティテュード数(月+日)の5は変化の連続の人生であること、人との関わりの中に自分の使命があることを示している。
【頂点数と試練数】 36-5=31
第1期(0~32歳の誕生日まで)
【頂点数; 5】
【試練数; 1】
自由にやれる時代。リーダーシップを鍛えられる。
第2期(32~41歳の誕生日まで)
【頂点数; 3】
【試練数; 6】
いろんなことに挑戦する。様々な人との出会い。責任を担い他者に尽くし人の世話をし育てる。
第3期(41~50歳の誕生日まで)
【頂点数; 8】
【試練数; 5】
お金、権力、権威がテーマ。現実的な成功の機会がもたらされ、正義感も育つ。個人の自由は期待できなかっただろう。
第4期(50才以降~)
【頂点数;2/11】
【試練数;7】
協力の時代でありスポットライトが当たる。
一方、深刻な状況も訪れる。深いスピリチュアルな問題に直面する。
あとがき
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リンカーンが大統領に就任したあと、アメリカは北部と南部に分断し、南北戦争という内戦に突入した。南部は奴隷制を廃止する考えは皆無であるのに対し、新大統領のリンカーンの公約は「奴隷解放」だったからだ。
もし奴隷制を維持したかった南部が、人類の進化の方向に沿っているならば、正義は南部にあり、南部が勝利していただろう。
だが現実はそうならなかった。やはり奴隷制というものは人類の進化のベクトル線上には存在していない、ということだったのだ。
さて、ひるがえって現在、2020年11月のアメリカも大混乱の最中だ。
傍目にはすでに民主党支持者が多い大都市と、共和党支持者が多いそれ以外の地域に、アメリカは完全に分断してしまったようにも見える。
選挙で不正があったとかで大騒ぎしているが、民主党に正義があるならば、すんなりとバイデンが大統領になるだろう。
だがしかし、もしそうでなかった場合は・・・、
一網打尽wwwww!?
“正直者のエイブ”という愛称で多くの人々に慕われたリンカーンは、あの世からいまのアメリカの現状をどう見ているだろうか?一度聞いてみたいものだ。
※MEMO
A;誕生数
※参考