数秘術で偉人をリサーチ ! 【マハトマ・ガンディー 誕生数⑨ インド】 Research the great with numerology! 【Mahatma Gandhi №⑨ INDIA】
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【マハトマ・ガンディー 誕生数⑨ インド】
Research the great with numerology!
【Mahatma Gandhi №⑨ INDIA】
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マハトマ・ガンディー【誕生数⑨ インド】
数秘術で偉人をリサーチ。
今回の誕生数9の偉人は、『マハトマ・ガンディー』
インド独立の父と呼ばれた、インド出身の弁護士、宗教家、政治指導者だ。
「マハトマ 」とはサンスクリット語で
「偉大なる魂」とか「偉大な聖人」という意味らしい。
ガンディーはおそらく人類初の「非暴力、不服従」を提唱し、
このガンディーの思想はインド独立の原動力となり、
第二次世界大戦後、インドはイギリスの植民地支配から
脱することができた。
ガンディーのこの思想は世界中に大きな影響を与え、
特にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、ダライ・ラマ14世等は
ガンディーに倣ったと表明している。
というわけで、
誕生数が⑨の人は
マハトマ・ガンディーの人生の転機の年齢と
同じくらいの年齢の時に
人生の転機となるような出来事が
やって来ることでしょう。
(28才、37才、46才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。
一桁になるまで続けて出てきた数字です。
マハトマ・ガンディー(1869.10.2〜1948.1.30)
年譜
1869(0) 現在のグジャラート州の港町ポールバンダルで、当時のポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガーンディー と、その夫人プタリーバーイ―の子として生まれた。
1888(18) 宗主国 イギリスの首都ロンドンに渡り、インナー・テンプル法曹院に入学。法廷弁護士になるため勉強する。
1891(21) 弁護士資格に合格。インドへ帰国しボンベイ(現ムンバイ)で弁護士業を始めるが、インドでの弁護士活動に不慣れでうまくいかず、空白の2年間を過ごす。
1893年(24) イギリス領南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)で弁護士として開業。
1906(37) トランスヴァール政府(スマッツ提督)が打ち出した指紋登録法に反対する闘いを始めた。ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動の始まり。
1908年(39) 初めて逮捕された。
1913(44) トランスヴァールの行進を企画して初めて投獄されたが、不正を追及して撤廃させ、初めて勝利を手にした。
1915(46) インドに22年ぶりに帰国。国民会議派の穏健派の指導者ゴーカレーに請われてそれに加わり、アーメダバードにサティヤーグラハの道場をつくって活動を開始。
1919(50) 3月、民族運動を弾圧する目的でローラット法が制定された。
4月13日、パンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)で「アムリットサル事件」が発生。
1922(53) 3月18日、2年間の不服従運動のために、6年間の懲役刑の判決を受けた。1922年から24年まで獄中で暮らし、紡ぎ車で糸を紡ぐことと読書ですごした。
1929(60) 再び表舞台に立つ。
1930(61) 不服従運動を再開。
3月12日から始まった「塩の行進」と称されるイギリスの塩税に抗議した運動は有名。
1931(62) ロンドンに渡り、9月7日に始まった第2回円卓会議に出席。そこで統一インドの即時完全な自治を要求した。帰国後まもなく逮捕。
1934(65) 第2次非暴力・不服従運動の停止を宣言。
1935(66) イギリスは新インド統治法を制定、地方自治を大幅に認めた。
1942(73) イギリスは「インドをイギリス連邦内自治領として認める」という条件でインド人の懐柔を図る。イギリスの魂胆を見抜いたガンディーはこれを拒否し、民衆は「クイット・インディア」(Quit India、つまり「インドから出ていけ」)を掲げ、その結果2年間投獄される。
1947(78) 7月、イギリス議会がインド独立法を可決。
8月15日、デリーの赤い城にて、ジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立。
1948(78)1月30日、ガンディーはニューデリー滞在場所であるビルラー邸の中庭で、狂信的なヒンドゥー教徒の青年によって暗殺された。
【誕生数;9】 1869.10.2 ⇒ 6.3.9 & 2
純粋でピュア、不正や曲がったことが嫌いで許せない。
崇高な理想を抱き、それを実現しようと情熱を注ぎ続ける。
平和を愛し、人間愛に溢れ、どんなときも調和、対話を大事にする人で、
争いを避けようと行動する。
それを理想主義者と呼ぶ人もいただろう。
寛容すぎるという人もいただろう。
大衆には及びもつかない高潔な魂。
【運命数;3】 Mohandas Karamchand Gandhi ⇒ 3.9.3
根が陽気で楽観的でポジティヴ思考、まるで少年のよう。
なのに思慮深い賢者ぽい雰囲気をまとう。
創造性と自己表現によって、他者の気持ちをつかみ、動かす人。
【実現数; 3】
運命数3 + 誕生数9 = 実現数3
【頂点数と試練数】 36-9= 27
第1期、子どもの頃はけっこうやんちゃ坊主だったようだ。
17才頃、父親を病気で亡くしているが、親の死に際の時の自分の行動に思うことがあったようで、なにか深く改心したようだ。
母親は大反対したようだが18歳でイギリスに留学してちゃんと弁護士の資格を取っている。
そのあとはインドに戻りボンベイで弁護士の仕事を始めたが、いろいろと不慣れもあり上手くいかず2年間無為に過ごしたとか。
南アフリカへ渡ったのは当地で成功していたインド商人の依頼だった。
というわけで若い頃は弁護士として順調だったわけではなく、けっこう苦労しているようだ。
だが、この間に様々な人々や思想(神智学、ヒンドゥー教、インド哲学、トルストイ、イエスの思想など)との出会いがあり、後の非暴力運動思想を形成していく基盤となっていった。
同時にインド独立のリーダーとなるべく鍛われる出来事を数多く経験させられたようだ。
たぶん、インドにずっと残っていたならばそういった出会いや経験はなかっただろう。
イギリスに留学したこと、南アフリカに渡ったことは大正解だった。
№9はスケール感のある数字だからか、ダイナミックに行動したほうが良いようだ。
第2期は弁護士の仕事の方はそこそこ軌道に乗っていたようだが、そこは人種差別の地、南アフリカだ、インド系移民に対する差別も日に日にエスカレートしていて、それに対する権利回復運動という困難な現実に取組んでいた。
そして、第3期の1年目の1906年、ガンジーの代名詞となる、非暴力・不服従がスタートしている。
さらに、第4期の1年目となる1915年にインドに帰国している。
ガンディーは人生の転機のタイミングでピタッと、その後の人生に大きな転機となる出来事が起こっていることがわかる。
※1906(37) トランスヴァール政府(スマッツ提督)が打ち出した指紋登録法に反対する闘いを始めた。ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動の始まり。
※1915(46) インドに22年ぶりに帰国。国民会議派の穏健派の指導者ゴーカレーに請われてそれに加わり、アーメダバードにサティヤーグラハの道場をつくって活動を開始。
※MEMO
A;誕生数
B;運命数
C;実現数
実現数=誕生数+運命数
=3+9
=12
=1+2
=3
※参照
ガンジー 37歳当時
あとがき
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マハトマ・ガンディーの人生は2部構成だ。
1部は南アフリカ時代。
2部はインド時代。
1部の南アフリカ時代では、インド人に対する差別を撤廃するために
22年間にもわたり奮闘し、ついに撤廃させた。
『非暴力不服従』作戦はその過程の中で生み出されたものだった。
この成功経験が雛形となって、インドに戻ってからの
インド独立運動に大きく役立っている。
面白いのが、人生の第3期スタートの年に
『非暴力不服従』作戦が初めて世に放たれ、
第4期のスタートの年に合わせるかのように、
ピタッとインドに戻ってきていることだ。
ガンディー本人は、37歳と46歳は人生の転機の年だから、
これやっとこう!なんて考えてたわけでは絶対ないので、
やはり、人生の転機のタイミングあたりでは、
その後の人生に大きく影響するような
大きなイベントが起こると言えそうだ。
人生の転機の年あたりの出来事を、
もう一度振り返ってみたら
面白い発見があるかもしれない。