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数秘術で偉人をリサーチ “高杉晋作” 【誕生数③ 日本】 Research the great with Numerology "Takasugi Shinsaku"【№③ JAPAN】

数秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

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高杉晋作(たかすぎ しんさく)【誕生数③ 日本】

 長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)とミチ(道子・大西将曹の娘)の長男として生まれる。下に3人の妹がいるが、男子は晋作のみであり、唯1人の跡取りとしてとりわけ大切に育てられた。

 

 安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞吉田稔麿入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。

 高杉氏は戦国以来、代々毛利氏に仕え藩政に関わる要職を歴任した家である。(ウィキペディアより)

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(34才、43才、52才前後)  

 

 ※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。  

 

 

 

高杉晋作(1839.9.27~1867.5.17)

 

年譜

1839(0) 

長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)とミチ(道子・大西将曹の娘)の長男として生まれる。

 

1849(10)

10歳のころに疱瘡を患う。

 

1852(13)

漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。

 

1857(18)

安政4年には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞吉田稔麿入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。

 

1858(19)

藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。

 

1859(20)

安政6年には師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師の世話をする。藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。

 

1860(21)

万延元年11月に帰郷後、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組・250石)の次女・雅と結婚する。

 

1861(22)

文久元年3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をした。8月には東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山横井小楠とも交友する。

 

1862(23)

文久2年5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。

同年、外国公使が武州金澤(金沢八景)で時折遊ぶことを聞き、刺殺の相談を同志と行うも制止され実行には至らず。

12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。

これらの過激な行いが幕府を刺激することを恐れた藩では、晋作を江戸から召還。

 

1863(24)

文久3年5月10日、長州藩関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗(下関戦争)。

晋作は下関の防衛を任せられ、6月には奇兵隊を結成し、阿弥陀寺を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。

同年、8月18日、八月十八日の政変長州藩が京都から追放された。

 

1864(25)

文久4年1月、晋作は脱藩し京都に潜伏。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄された。

6月には出所して謹慎処分となる。

8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任され「彦島の租借」を要求を撤回させ、賠償金は江戸幕府に請求させることに成功した。

長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派が台頭し、10月には福岡へ逃れ平尾山荘に匿われる。

12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。

 

1865(26)

元治2年3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥し藩の実権を掌握。

同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。

4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われ、愛妾・おうのとともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。

6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。

 

1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する

 

1866(27)

慶応2年1月21日(一説には1月22日)、桂小五郎井上聞多伊藤俊輔たちとともに進めていた薩長盟約が、土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎・土方久元の仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。

6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦闘指揮を執った。屋代島(周防大島)沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊などと連絡して周防大島を奪還。

小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させた。

 

1867(28)

慶応3年3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。

5月17日、下関市桜山で肺結核の療養中に死去。享年29(満27歳8ヶ月)。

 

 

 写真あり】もはや漫画。27歳で亡くなった高杉晋作の生涯が格好良すぎる【幕末】 | 幕末ガイド

 

 

 【誕生数;3】1839.9.27 → 3.9.3 & 9

 

主な数字が3と9のみ。しかも1800年代の39年生まれだ。

少年と年老いた賢者が同居しているような、ONとOFFの差が激しかったといわれるが、さもありなん。

ONの時は3モード、つまり行動、アウトプット。OFFの時は9モード、つまり大局的見地や自身のインスピレーションに基づく思索や未来予測、インプットに没頭、ときどき芸術家だったのだろう。

 

【3】なので、話上手、特に高杉は人を言いくるめるのが上手だったようだ。
それもあって下関戦争の時、長州藩から特命全権大使に任命された。ハッタリも得意で、乗船した時、黒のえぼしに陣羽織、黄金づくりの太刀を帯びた高杉の姿を見た四か国連合艦隊の武官には、高杉が悪魔のように見えた、と、通訳だったアーネスト・サトウの記録に残っている。
 
その和議交渉の時に古事記を最初から話し出し、7日間が過ぎたあたりで、さすがにイギリスかフランスかの武官が、「その話はいつまで続くのですか?」と質問したら、高杉は、まだ初代天皇神武天皇が即位したあたりで、今上天皇は122代だからまだまだ続く、と言い放ち、その武官たちは面食らったとか。
(面食らったわけは、軍隊の遠征費は莫大で一日滞在が延びるだけで大出費になる。当然、和議交渉が長引くと本国からなにやってるんだ!と叱責され、武官たちは降格の可能性も出てくるからだ)
 
楽天的前向きポジティブで、いっときもじっとしていられない人だ。典型的な動きながら考える人だが、お金の感覚はちょっとずれている。
 
上海に行った時、独断で軍鑑を買ってきて、藩の財政担当からやかましく言われたそうだが、しかし、その船が第二次長州征伐の時に役立ち周防大島を奪還している。9は先を見通すのだ。
 
辞世の句は『おもしろきこともなき世おもしろく』だが、いかにも3らしい句だ。
 
3は永遠の少年で、常にいたずら心を持ち、人を楽しませることが大好きで、いつも何か面白いことを探しているのだ。

 

 

 
【運命数;3】Takasugi Shinsaku ⇒ 9.2/11.2/11
 
晋作は通称で、ほかにも名前はたくさんあったようなのでなんともいえないが、高杉晋作なら運命数は2/11になる。
 
 
 
【実現数;6】 3+2/11=5/14
 
晋作であれば実現数は5/14。5は変化、革命の数字。
まさしく時代の風雲児、革命家だった。
 
 
明治まであと3年(1865)▷長崎の長州藩士(伊藤博文・高杉晋作) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives
 

 

 

 

【頂点数と試練数】 36-3=33

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第1期(0~34歳の誕生日まで)

【頂点数; 9】

【試練数; 0】

学びを統合し世界に恩返しをする時。物質的精神的な富と成熟の感覚。

試練数は0、第2期以降の頂点数がすべて3。今世でナンバー3をコンプリートする気満々だったようだが、27歳8ヶ月でこの世を去った。

 

構成するナンバーは369のみで、同じナンバー3のEllie Gouldingとよく似ている配置なのが面白い。

 

 

Ellie Gouldingの頂点数試練数

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あとがき

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光の速度は299,792,458m/sだが、9/27生まれで2、7、9という数字を持つ高杉の人生は、まるで光の化身のような生き様だ。
 
例えばガンジーは1869年10月2日生まれだが、合計すると【27】。つまり27の9と言う誕生数の持ち主。ガンジーも光の化身のような人生だった。
 
光とは神である、と聖書にあるように、279と言うナンバーの持ち主は、時代の変化を促すために神なる存在が地球に送り出した魂なのかもしれない。
 
そういう意味では、高杉もまた神なる存在の化身というか、神なる存在に遣わされたかのような、幕末という混沌の時代に差し込む一閃の光のような、疾風怒涛の人生を駆け抜け、時代が江戸から明治へ、封建時代から近代へ、移行する橋渡し役を担っていたようにも思える。
 
彼の生き様は、最初から第1期限定で、目一杯、全力で生きることを決めて生まれてきたかのように、ひと時もじっとしている時はなく、その目まぐるしさは常人離れしている。
 
高杉の人生を眺めると、そう感じずにはいられない。
 
 
故竹内睦泰氏(通称ムッちゃん)が高杉晋作のことを熱く語ります。(20:20すぎから)
竹内睦泰 江戸幕府滅亡
 

 

※MEMO  

 

A;誕生数

 

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ja.wikipedia.org

  

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