数秘術で偉人をリサーチ “横井小楠” 【誕生数④/⑬ 日本】 Research the great with Numerology "Yokoi Shonan"【№④/⑬ JAPAN】
日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。
熊本藩において藩政改革 を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。(ウィキペディアより)
維新の十傑にも名を連ねる。
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(33才、42才、51才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
横井小楠(よこいしょうなん 1809.9.22~1869.2.15)
年譜
1809(0)
文化6年8月13日、肥後国(現在の熊本県)熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士・横井時直の次男として生まれる。
1833(26)
天保4年に居寮生となった。
1836(29)
天保7年に講堂世話役となった。
1837(30)
1839(32)
天保10年、藩命により江戸に遊学、林檉宇の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らに会う。また、江戸滞在中に幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。
同年12月25日に藤田東湖が開いた忘年会に参加した帰り、さらに酒を飲み重ねた後、藩外の者と喧嘩になったことが咎められた。
1840(33)
天保11年2月9日、藩の江戸留守居役から帰国の命令を下され、帰国後には70日間の逼塞に処された。
1841(34)
天保12年頃より、長岡是容、下津久馬、元田永孚、萩昌国らと研究会を開く。これが「実学党」となり、筆頭家老の松井章之を頭目とする「学校党」と対立する。
1843(36)
天保14年、自宅の一室で私塾(のち弘化4年(1847年)に「小楠堂」と命名)を開く。小楠の第一の門弟は徳富一敬であり、一敬は徳富蘇峰と蘆花の父親である。
1849(42)
嘉永2年、福井藩士・三寺三作が小楠堂に学び、これにより小楠の名が福井藩に伝わり、のちに福井藩に出仕するきっかけとなる。
1852(45)
嘉永5年には、福井藩の求めに応じて『学校問答書』を、翌嘉永6年(1853年)には『文武一途の説』を書いて送り、これにより後に福井藩より招聘を受けることとなる。
同年10月、ロシア軍艦に乗ろうとして長崎に向かっていた吉田松陰が小楠堂に立ち寄り、小楠と3日間話し合った。
1855(48)
安政2年5月、農村の沼山津(現・熊本市東区沼山津)に転居し、自宅を「四時軒」(しじけん)と名づけ、自身の号も地名にちなんで「沼山」(しょうざん)とする。
坂本龍馬、井上毅、由利公正、元田永孚など、明治維新の立役者や後の明治新政府の中枢の多くが後にここを訪問している。
1857(50)
安政4年3月、福井藩主・松平春嶽の使者として村田氏寿が小楠の元を訪れ、福井に招聘される。
1858(51)
小楠は翌安政5年3月に福井に赴き、賓師として50人扶持の待遇を与えられ、藩校明道館で講義を行うなどした。同年12月、弟の死去により熊本に帰郷。
1859(52)
安政6年に再度福井藩から招きを受けて福井に滞在。同年12月、実母が危篤との知らせが来たため熊本に帰郷。
1860(53)
万延元年2月、福井藩による3回目の招きにより福井に再び赴く。この頃、福井藩内では、保守・進歩の両派が対立していたため、これを見た小楠は『国是三論』を著し、挙藩一致を呼びかけた。
1861(54)
文久元年4月、江戸に赴き、春嶽と初対面する。この江戸滞在中、勝海舟や大久保忠寛と交流を持った。同年10月、7人の福井の書生を連れ、熊本・沼山津へ帰る。しかし11月26日に狩猟に出掛けた際、藩主専用の鷹狩の場所となっていた沼山津の沼沢地において、残った弾を射ち放したことを咎められ、謹慎処分となった(榜示犯禁事件)。
1862(55)
7月に江戸の越前松平家別邸を訪れ、江戸幕府の政事総裁職となった春嶽の助言者として幕政改革に関わり、幕府への建白書として『国是七条』を起草した。
8月、大目付・岡部長常に招かれ、『国是七条』の内容について説明を行い、一橋徳川家邸では徳川慶喜に対面して幕政について意見を述べた。この頃、坂本龍馬・岡本健三郎と福井藩邸で会った。
同年12月19日、熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別邸を訪れ、熊本藩士の都築四郎・谷内蔵允と酒宴をした。谷が帰った後、3人の刺客(熊本藩足軽黒瀬一郎助、安田喜助、堤松左衛門)の襲撃を受けた。
1863(56)
文久3年8月まで福井に滞在する。
同年12月16日、小楠に対し知行(150石)召上・士席差放の処分が下され、小楠は浪人となった。
1864(57)
元治元年2月に龍馬は勝海舟の遣いで熊本の小楠を訪ねている。小楠は『国是七条』を説いた。この会談には徳富一敬も同席。
1865(58)
慶応元年5月にも龍馬が小楠を訪ねてきているが、第二次長州征討の話題となった時、小楠が長州藩に非があるため征討は正当だと主張し、龍馬と口論になったという(これ以後、小楠と龍馬は会うことがなかった)。
1867(60)
慶応3年12月18日、長岡護美と小楠に、朝廷から新政府に登用したいので上京するように通知する書状が京都の熊本藩邸に送られる。
1868(61)
慶応4年3月5日、参与となった長岡護美がその辞退を申し出る書を副総裁の岩倉具視に提出したが、岩倉は小楠の事を高く評価していたため「心配には及ばない」と内示し、3月8日に改めて小楠に上京の命令が出された。
4月11日、大坂に到着。4月22日に徴士参与に任じられ、閏4月4日に京都に入り、閏4月21日に参与に任じられる。翌22日には従四位下の位階を与えられた。
しかし激務から体調を崩し、5月下旬には高熱により重篤な状態となった。
7月に危険な状態を脱し、9月に再び出勤できるまでに回復した。
1869(62)
明治2年(1869年)1月5日午後、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で十津川郷士ら6人組の襲撃を受けた。
護衛役などが応戦し、小楠も短刀1本で攻撃を防ごうとするが、暗殺された。
享年61。
【誕生数4/13】1809.9.22 → 9.4/13.4/13 & 4/22
生まれ年以外はすべて4であり、それも13や22というカルマナンバー、マスターナンバーだらけだ。
往々にして4は生真面目で保守的で伝統的、前例を良しとし変化を好まないものだが、22日生まれというマスターナンバーがそれを打ち破ろうとする。
故に小楠はなんでもキッチリ有能にこなすうえ、直観力、霊感、独創性、改善能力が飛び抜けていて、センシティヴで何事にも批判的なものの見方だったかもしれない。
上司にもおかまいなしに、グサグサと歯に衣着せずにモノを言い、しかも言うことは的を得ていて筋も通り、反論しようがない・・・否、反論しようものなら10倍返しで返ってくる・・・、
つまり真面目だが、だいぶ面倒くさい、扱いづらい人であったのかもしれない。そのため保守的で閉鎖的な肥後藩では横井小楠は理解されず、煙たがられ、その国宝級の才能はまったく評価されることもなかった。
カルマナンバーの13は改善を促す数字だ。そのため小楠の目には肥後藩の藩政や江戸幕府の統治などが、あまりにも時代遅れで古臭く、煮詰まってしまっていて大がかりに改善しなければならいように見えていただろう。
4とは四角形であり、四角形とは枠を意味する。4は枠となる大きな絵を描き、基礎や土台を設計し建設する。
同じ4の李登輝も台湾の民主化と経済発展の基礎となる大枠を形成した。その大枠の中で、李登輝の後継者たちは台湾をさらなる繁栄に導いた。
小楠もまた、李登輝がなした仕事と同様に、日本を封建時代から近代国家へと建替えるために基礎となる大枠、つまりグランドデザインを描いた。それに維新の中心人物たちは幕臣も倒幕派もみな共感し、その第一歩としての大政奉還、そして明治維新への道筋のイメージが共有された。
そう、幕末期の活動家たちの思想的バックボーンは小楠によって築かれ、そうして明治維新は小楠が思い描いたその枠の中で、木戸、西郷、大久保らを中心とした新政府のリーダー達によって進められた。
もし小楠が今の時代に生きていたら、建築や都市計画関係の設計やコンサルタントの仕事で世界的に活躍してそうだ。
【頂点数と試練数】 36-4=32
第1期(0~33歳の誕生日まで)
【頂点数; 4/13】
【試練数; 5】
評価が高まる。自由はなかっただろう。
第2期(33~42歳の誕生日まで)
【頂点数; 4/13】
【試練数; 5】
評価が高まる。自由はなかっただろう。
第3期(42~51歳の誕生日まで)
【頂点数; 8】
【試練数; 0】
第4期(51才以降~)
【頂点数;9】
【試練数;0】
あとがき
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※MEMO
A;誕生数
※参考