秘秘術で偉人をリサーチ 奥保鞏【誕生数⑧ 日本】Research the great with numerology "Oku Yasukata" 【№⑧ JAPAN】
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奥保鞏(おくやすかた)【誕生数⑧日本】
数秘術で偉人を分析シリーズ、8人目は日露戦争の司令官のひとり奥保鞏。実績の割には知名度が低いように思えるが、とんでもなく凄い人だ。どれだけ凄いかというと、長州征討で長州藩に刃向った小倉藩出身にも関わらず、長州、薩摩出身者以外で初めて元帥に昇進したことからも、それはわかる。
奥元帥は豊前小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として、小倉(福岡県北九州市)に生まれる。幕末は主家が幕府側だったため、主家に従い長州征討に参加した。
その後、陸軍に入営し、鎮西鎮台に所属。佐賀の乱、台湾出兵、神風蓮の乱、西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍し、人生の2/3は戦陣とともにあったという、まさに筋金を入れて、それをさらに極限まで鍛え上げたかのような武人だった。
その誕生数は【8】。誕生数8の人は華やかな人生を送る人が多いが、大砲や鉄砲の弾丸、刃の切り合う音、敵味方の兵士たちの咆哮がこだまする・・・そんなある意味華々しくも賑々しい戦場を常とした奥元帥は、まさに誕生数8を地で行った一生だった。
元帥まで昇進したことは異例中の異例だったようだが、それは奥元帥の古武士然とした謙虚な人間性もあったようだが、その指揮統帥能力が超越していたことによるようだ。当時の軍司令官の中で、参謀の補佐なく作戦遂行できるのは奥だけ、と言われていた。
つまり「余人をもって代えがたい」というほどの人物だったのだ。
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(29才、38才、47才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
奥保鞏(おくやすかた1847.1.5〜1930.7.19)
【誕生数; 8】1847.1.5 →2.6.8 &5
物腰はソフトで調和を重んじる。何事にも柔軟で臨機応変に対応でき、上層部からの指示は素直に実行に移しただろう。全体と細部を把握できる人であり、指揮統率能力が秀でていた。ここぞというときは冒険に打って出るような作戦も実行しただろう。大局を捉え、バランスの悪いところを見抜き、そこを勇猛果敢、徹底的に攻めただろう。古武士のような謙虚な性格だったたと言われるが、戦法は強気で熾烈かつ冒険的なものが多かったのではないだろうか。一見穏やかな風貌と印象を人に与えるが、人一倍エネルギッシュであり、内面には熱い闘志を秘めていただろう。
【頂点数と試練数】36-8 = 28
第1期(28歳まで)
【頂点数; 6】他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。
【試練数; 4】忍耐力を鍛えられる。
15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぎ、馬廻・知行300石となって七郎左衛門と改名。小姓、物頭を務める。佐賀の乱に出陣した時は、弾丸が胸と腕を貫通したにもかかわらず、そのまま部隊を指揮したという。
第2期(29歳〜37歳)
【頂点数; 7】精神的な深まり。魂の進化を促される。
【試練数; 3】自己表現への欲求が高まる。
西南戦争がその後の人生に与えた影響は大きかっただろう。この戦争の時、奥元帥は熊本城に籠城していたが、その時のメンバーは谷干城、児玉源太郎、樺山資紀、川上操六、大迫尚敏、小川又次という、その後の日清日露等の戦役で重要な役割を担った士官たちだった。
その後このメンバーは時折集まって桜鍋を囲んで当時の思い出話を語り合っていたという・・・。彼らはつまりソウルメイト。死地を共にした仲間同士、精神的な絆は深まり互いの魂は進化しただろう。
このときの西南戦争では奥元帥は決死隊を結成して薩摩軍の包囲を突破した。その際に銃弾が頬を貫通するも、左手で傷口を押さえ、右手で軍刀を振るって指揮を執り続けたたという。
この突破作戦が当時の錦絵に描かれ奥元帥の錦絵が飛ぶように売れたという。つまり敵包囲陣を突破するという試練によって自己表現がなされた=奥元帥の評価が高まった。
第3期( 38歳〜46歳)
【頂点数; 4/13】第1期、第2期の経験により評価が高まる。
【試練数; 1】来たるべく日清日露の戦役の指揮官となるべく鍛えられた。
38歳になった年の5月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長に着任。その後、近衛歩兵第1旅団長、東宮武官長、近衛歩兵第2旅団長を歴任。
第4期(47歳以降)
【頂点数; 3】いろんなことに挑戦する。様々な人との出会い。
【試練数; 1】不可避となった日露の戦役の指揮官となるべく鍛えられた。
48歳になった年の8月、軍功により男爵を授爵し華族となる。
47歳になった年の2月から9月まで欧州出張。11月第5師団長に任命され日清戦争に出征。
55歳の時、インドに出張。翌年3月に帰国。
59歳の時、参謀総長に就任。
60歳、伯爵に叙せられる。
64歳、元帥府に列せられる。
65歳、議定官に就任。
83歳、薨去。
1897年頃の写真
あとがき
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日露戦争の時の奥元帥の副官がみた奥元帥の印象は、 『見た目は全くの田舎の爺様であり、まったく才能があるようには見えなかった。どこにもでもいる平々凡々な寡黙な人物としか瞳には写らなかったが、そこに居る人物は自分を捨てて全軍の中枢になる責任感の強い軍人であった 』という。また日露戦争の功労による下賜金を自分のものにせず、部下に与えたという。
西南戦争では熊本城に籠城、決死隊を結成し、薩摩軍の包囲を突破、官軍が陣を張る熊本城の南約15㎞地点の木原山に辿りつき連絡をとることを成功させた。包囲を突破する際に銃弾が頬を貫通したが、左手で傷口を押さえ、右手で軍刀を振るって指揮を執り続けたという。これにより勇猛果敢な軍人だと有名になった。
また奥元帥は難聴だったようで、筆談でやりとりしていたそうだ。ヴェートーベンが耳が聞こえなかったのに偉大な作曲家だったように、奥元帥も難聴だったが故に、戦場のちょっとした気配や敵指揮官の心理や意図が手に取るように読めていたのかもしれない。
奥元帥は言うなれば”静寂の猛将”だ。その戦ぶりは穏やかな人物像とは逆で、非常に苛烈で強気のように思える。それは佐賀の乱のとき弾丸が胸と腕を貫通したが、そのまま部隊を指揮したり、西南戦争の時も負傷したまま戦闘を続け、日露戦争の南山の戦いの時は、味方劣勢となり大苦戦となったが、奥元帥は攻撃を断念せず苛烈に攻めたことからうかがえる。
もし南山の戦いで奥元帥が攻撃を断念していたら南山を占領するのに多くの日数を費やすことになり、その後の戦局は違ったものになっていたかもしれない。もしかしたら奉天会戦まで日本軍は物資も兵員ももたなかったかもしれない。
その人となりは謙虚で、古武士然として奢ることも威張ることもなく、自分の功績は自慢するどころか逆に意図的に隠していたという。一生武人であることを貫き、台湾総督の後任を打診されたた時も、「政治には関与しない」とアッサリ断わった。
ただ相当な酒好きだったようで、夜に部下が自宅に来た時などは翌朝まで飲み明かすこともよくあったり、自宅に人を招いて食事をする際は、まず「今夕は何の風情も無いが、何とぞ鶏鳴までゆるゆるお飲み願う」と挨拶したそうで、来客は皆この挨拶に度肝を抜かれていたという。
しかしながら20歳前後のときから60歳手前になるまで、多くの激戦の戦場に立ちながら、83歳という当時にしてはものすごい長寿で天寿を全うした奥元帥という人物は、とんでもなく強運だったと言える。
※メモ
A;誕生数
※参照
ウィキペディア奥保務
奥保務
古志山人閑話