秘秘術で偉人をリサーチ 板垣退助【誕生数⑨ 日本】Research the great with numerology "Itagaki Taisuke" 【№⑨ JAPAN】
秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology
板垣退助(いたがきたいすけ)【誕生数⑨ 日本】
数秘術で偉人を分析シリーズ、九人目は板垣退助。日本人なら誰もが知っている明治維新の元勲だ。しかし、どんな人だったのかと聞かれれば・・・どこかで暴漢に襲われて「自分が死んでもナントカは死なない・・・」とか言い残して亡くなった人・・・という記憶がある人が多いかもしれない。
かくいう自分もその一人で、今回、改めて板垣公の人生の足跡を辿ってみて、実は暴漢に襲われた時、命を落としていないことを知った・・・。
一方、板垣公がどれだけ偉大だったかとううこともよく分かった。例えれば、山に登るとき、高い山ほど麓からは頂上は見えないように、公の功績はあまりにも大きくて高く、そして広く遠大だ。
戦であればどこそこで武功を挙げた、という誰の目にも見える功績となる。だが国会の開設を求める自由民権運動を中心となって推進するとかいう、ゼロから形のない仕組みを作っていく、しかもそれは未だかつて日本ではだれも聞いたことも見たこともないシロモノ。いくら丁寧に話しても理解できない人のほうが多かっただろう。
しかし、予定通り、1890年に第1回総選挙は行われ、帝国議会は開かれた。板垣公の功績とは、全くのゼロ、無風状態、線香の火さえもないところから、気運を生み出し、それを膨らましていった点にあるといえるだろう。
飛行機もそうだが、何事も動きだし離陸するまでが一番エネルギーを要する時であるように・・・。
このように№9の人生というものは、往々にして遠大で複雑で高尚である場合が多い。インドのマハトマ・ガンジーも同じ№9だが、そういう意味では、やはり自由民権運動を主導するのに最も相応しい人物は板垣公しかいなかったと言える。
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(28才、37才、46才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
板垣退助 (1837.5.21~1919.7.16)
【誕生数;9】 1837.5.21 → 1.8.9 & 3
卓越した現実的処理能力と統率力、崇高な精神性の持ち主。自由や平等、フェアであること、誠実であることを良しとしていただろう。表現能力も秀でていて言葉による弁舌も得意だっただろう。実際、幕末期は軍指揮官としては西郷に次ぐ評価を受け、その後、自由民権運動を主導し全国を遊説して回ったが、これは弁舌の才なくしてはできない仕事だ。
親分気質と聖人のような俗世間を超越したような、鬼と天使が同居しているような面があったかもしれない。幼少期は番長同然だったようで、毎日喧嘩ばかり、一方、人生の後半は金も名誉も地位も興味ないような、まるで『竹林の七賢』のような暮らしぶりだったそうだが、№9ならそれも頷ける。何事も大局から捉えていたのだ。
【頂点数と試練数】 36-9=27
第1期(27歳まで)
【頂点数; 8】現実的な成功の機会がもたらされる。
【試練数; 2】自分の思い通りに物事が進まない状況も訪れる。
幼少期は腕白でやりたい放題だったようだが、幼馴染の後藤象二郎の叔父だった、土佐藩家老吉田東洋に抜擢され、藩主山内容堂の側に置かれた。次第に藩の要職を任されるようになった。土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張していたが、当時の土佐藩上士は公議政体論が主流だったため、この点において多くのジレンマを抱いていただろう。
第2期(36歳まで)
【頂点数;4】 第1期の経験により評価が高まる。
【試練数;2】 自分の思い通りに物事が進まない状況は続く。
1867年には、藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令した。同年9月、板垣退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議。10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す、など土佐藩の中心的存在となっていった。
だが12月、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対していた板垣は失脚。土佐藩兵は板垣を残して上洛。しかし、翌年1月9日、板垣の失脚は解かれ、1月13日、深尾成質を総督、板垣退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦、と状況は目まぐるしく変転した。
1870年に高知藩の大参事となる。1871年に明治新政府の参議となる。1873年、板垣は率先して征韓論を主張、だが欧米視察から帰国した岩倉具視らによって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らとともに下野した。(※ちょうど第2期の終わりの年にこの事件は起こった。)
第3期(45歳まで)
【頂点数;3】 いろんなことに挑戦する。様々な人との出会い。
【試練数;0】 この時期は特に試練はなく比較的自由に生きれただろう。
征韓論を契機に自由民権運動に挑戦することになる。政党も結成し全国を遊説しさまざまな人々との出会いがあっただろう。
第3期の最後の年の4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。この時放った言葉が「板垣死すとも自由は死せず」だったという。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けた。
11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国。この時期は試練数0の時代であり、比較的好きにできた時代だっただろう。
この洋行はいろいろと波乱含みだったがそれはここでは触れないことにしよう・・・。
第4期(46歳以降)
【頂点数;6】 他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。
【試練数;4】 忍耐力を鍛えられる。
それまでの確執やこだわり、対立などを超えて、大局に立ち活動した。1896年、議会内で孤立していた自由党が第2次伊藤内閣と協力の道を歩んだことや、1898年、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣したことからもそれは伺える。
1919年、7月に肺炎でお亡くなりになるが、これはスペイン風邪が原因だったのではないだろうか?
幕末から維新を駆け抜けた人生を送り、明治日本の主要な人物だった板垣公、82歳という長寿に達し、天寿を全うしただけでもとんでもなく強運な御仁だったと思う。
あとがき
***********************************************************************************
板垣退助公はもともと乾姓を名乗っていて、本来は武田信玄の重臣であり、武田四天王でもあった板垣信方が祖であったようだ。
戊辰戦争では土佐藩士による迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。その際、甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視らの助言を得て、板垣氏に姓を復したという。
この策が講じて甲州勝沼の戦いでは近藤勇の率いる新選組を撃破、その後、江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召し抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのに絶大な効果があったそうだ。
東北戦争では、三春藩を無血開城させ、二本松藩・仙台藩・会津藩などを攻略するなどの目覚ましい軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増されている。
官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れたという。
板垣公は自由民権運動の旗手と見なされているのだが、このように、当時においては軍事的才能のほうを高く評価されていて、将としては、第一位が西郷隆盛、第二位が板垣退助、第三位が山縣有朋という維新の志士たちの認識だったそうだ。
西郷もある時、『今の時において、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねられ、即座に『それは板垣じゃ』と答えたという説話が残っているほど。
しかしながら、なぜ軍人として活躍の道がなかったかというと、当時の土佐藩に薩摩藩と長州藩に対抗できるだけの力がなかったからだったとか。
いずれにせよ政治家は板垣公の天職だったのだ。有能な軍人にもなることができた人だが、№9がそれを許さなかったのだろう。
世のため人のために生きる道こそが№9の人生だからだ。
※MEMO
A;誕生数
※参照
「自由」に生きた土佐の悪童 板垣退助
板垣退助 いたがき たいすけ
板垣退助(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
板垣退助の功績とエピソード
100円のお札に描かれたあの人物! 自由党を組織し自由民権運動を主導した『板垣退助』
【寄稿・偉人伝の裏側を見破る】