数秘術で偉人をリサーチ 大村益次郎【誕生数⑤ 日本】Research the great with numerology "Omura Masujiro" 【№⑤ JAPAN】
秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology
大村 益次郎(おおむらますじろう)【誕生数⑤ 日本】
維新10傑の一人であり、大久保公と同じく40代半ばでこの世を去ってしまった維新の巨星。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となりました。
戊辰戦争後、凶刃に襲われるまでの約3ヶ月の間に、その後の日本陸軍の創設に重要な影響を与える決断を矢継ぎ早に下し、
そういう理由で靖国神社の参道中央にいつも立っていらっしゃいます。
もし大村益次郎があと20年生きていたら、その後の歴史は違ったものになっていたように思えてなりません。
大村益次郎の 誕生数は⑤。
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(32才、41才、50才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
大村益次郎(おおむらますじろう 1824.5.30~1869.12.7)
【誕生数;5/14】 1824.5.30 → 6.8.5 & 3
語学の才能に優れ、読み書き話す、さらには外国語の翻訳も独学で習得してしまうほど、語学に関しては生まれつき天賦の才があったようだ。誠実で裏表ない性格であり非常に高いエネルギーの持ち主、好奇心旺盛で行動力も備え、様々なことに興味を持っていたのだろう。
そして、それら興味の対象を冷静に観察分析して論理的に思考し、自分なりの仮説を導き出す頭脳の持ち主であっただろう。大局と細部の両方が見えている人であり、大将軍の器だった。
既存の枠組みに囚われない自由な発想と思考を持っており、それが時にはあまりにもドラスティックだったり、周囲からは理解不能に思われ、急激な変化を好まない人間たちからは煙たがられたかもしれない・・・。
【頂点数と試練数】 36-5=31
第1期
20代半ばまでに当時の最先端の西洋兵学・蘭学を習得した。オランダ語の本の翻訳も難なくこなした。第1期の後半、26歳~30歳の約4年間だけがのんびり暮らせた時代だった。31歳の時、村田蔵六と改名。同年、長崎に行き軍艦建造の研究を行う。そこで自分を看取ることになるシーボルトの娘楠元イネと出会う。
第2期
第1期で学んだことを私塾を通して多くの人に教えるとともに、さらにヘボンのもとで英語も学ぶなど学びを深めた。32歳の年、江戸に出た。江戸では私塾を開塾。幕府の蕃書調書教授方手伝、33歳の年、講武所教授になる。34歳の年、長州藩上屋敷で開催された蘭書会読会に参加し兵学の講義を行った際、木戸孝允と出会う。これを機に江戸在住のまま長州藩士になる。第2期の後半、激動の第3期の準備をするかのように、39歳の年、萩に帰国する。40歳の年、藩の多くの重要な仕事に関わった。
第3期
41歳の年、上海に隠密に渡る。同年、高杉晋作から奇兵隊などの指導を要請される。木戸孝允からは10万取の上士に推挙される。同年、大村益次郎と改名。不思議と人生の転機のタイミングで改名している。それからは8の時代の通り、お金、権力、権威の旗印のもとに、その才能を最高潮に発揮し、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争終結まで、新政府軍の総司令官として指揮を執った。戦後もドラスティックに軍隊の創設について考えていたが、大久保利通らとは考えが合わなかった。大村の考えを理解できない不満士族たちによる刺客に襲われ45歳の若さでこの世を去った。
※MEMO
A;誕生数
※参照
数秘術で偉人をリサーチ 東郷平八郎【誕生数④ 日本】Research the great with numerology "Togo Heihachiro" 【№④ JAPAN】
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東郷 平八郎(とうごうへいはちろう)【誕生数④ 日本】
日露戦争の日本海海戦において、当時世界第2位の海軍力を誇ったロシアのバルチック艦隊を打ち破った提督として世界を驚かせましたが、東郷提督の神がかり的な運の良さは若い頃から有名だったようです。
もし平和な時代であれば、東郷さんは優秀な鉄道技術者になっていたのかもしれません。
数秘術を通して見ると、東郷さんは平和を愛し、芸術を愛し、手先が器用で、何か役に立つものを製造したり修理したりするのが大好きな職人気質の人で、家族思いの優しい人であったことが良く分かるからです。
20代前半の頃、イギリスに留学しましたが、東郷さん自身の希望は鉄道技術者になることでした。
しかし、時代がそれを許しません。同郷の大先輩、西郷隆盛に説得されて海軍軍人になるための学校に入学することになったからです。
東郷提督の 誕生数は④。
同じ誕生数の人は東郷提督と同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(33才、42才、51才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
東郷平八郎(とうごうへいはちろう 1848.1.27~1934.5.30)
【誕生数;4/13】 1848.1.27 → 3.1.4 & 9
寛容で穏やか、礼儀ただしく謙虚、でしゃばるようなことはせず常に一歩引いて全体を観察している人。その一方でリーダーシップが必要とされる場面ではソツなくリーダーとしての能力を発揮しただろう。
聡明かつ真面目な努力家でもあり上司には忠実。規律正しく、周りからの信頼も厚く、何事も忍耐強くきめ細かく慎重に対処し行動に移しただろう。手先が器用だったはずでイギリス留学を希望した最初の動機は鉄道技師になることだった。
しかし同郷の偉大な先輩、西郷隆盛に説得され海軍軍人となるべく約7年間に渡り、根気よくイギリスで修業を積んだ。頑固さが玉に傷であるが晩年その傾向が顕著になっていったようだ。
【運命数;6】 TOGO HEIHACHIRO → 6.9.6
芸術を愛し、家族や身内を大事にし面倒見がいい人。生まれつきだれからも好かれ可愛がられただろう。美食家でもありイギリスで食べたビーフシチューが忘れられず、その味を再現しようとして日本で初めて肉じゃがを創作した人とも言われる。
奉仕する人であり、理想に生きる人であり、法律や伝統を守る人。バランス感覚、判断力に優れていた。責任感が人一倍強かっただろう。
本来、競争心などなく、安全を求め、他者のために動く人。若い頃から戦場にあり悲惨な光景を目にしていたので東郷は戦争が大嫌いだった。
【実現数;1】 4+6=1
偉大なリーダーとなるべく生まれてきた人。生まれる前、自分に課した人生の目的を果たし天命を全うした。生涯を通じて強運であり、まさしく幸運の女神に守護され愛された人だった。
【頂点数と試練数】 36-4=32
第1期
10代の時から幕末の動乱に巻き込まれた。1862年(14)薩英戦争に従軍。戊辰戦争では春日丸に乗り込み阿波沖海戦、函館戦争、宮古湾海戦を戦う。この時からすでに東郷は『運がいい』と噂されていた。維新後はイギリスに7年間も官費留学し徹底的に海の男として鍛えられた。これらの経験はすべて偉大なる海軍大将につながっていった。
第2期
30歳で日本に帰国後はさまざまな海軍の軍艦の艦長を務めた。海軍軍人として操艦技術や命中精度など海軍力の向上に努めただろう。38歳から40歳にかけて体調を崩し病気療養が続いた。
第3期
42歳の年に呉鎮守府参謀長となる。日清戦争の高陸号事件ではイギリス仕込みの国際法の知識に基づく行動が正しかったことが証明され世界的に有名になった。日清戦争後も一時病床に伏す。そのため東郷は海軍内にあっては本流ではなく傍流であり、病気がちで目立たない存在と見なされていた。
第4期
50歳で中将になった。51歳で佐世保鎮守府の司令長官に就任。53歳の時、新設の、舞鶴鎮守府初代司令長官に就任。この人事は閑職への移動とよく言われるが、実際は対露戦を想定したロシアのウラジオストク軍港に対峙する重要ポストだったようだ。東郷本人は中央への移動を希望していたという。
※MEMO
A;誕生数
B;運命数
C;実現数
実現数 = 誕生数 + 運命数 = 4 + 6 = 1
※参照
黄昏怪奇譚 『運の不思議。東郷平八郎と山本五十六にみる運の良し悪し』
2016年 強運東郷平八郎と東郷坂歴史散歩
武田鉄矢 今朝の三枚おろし テーマ『運という技術』1週間まとめ
数秘術で偉人をリサーチ 山岡鉄舟【誕生数③ 日本】Research the great with numerology "Yamaoka Tesshu" 【№③ JAPAN】
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山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)【誕生数③ 日本】
数秘術で偉人を分析シリーズ、3人目は、幕末の三舟と呼ばれた『山岡鉄舟』殿。
江戸城総攻撃の前に、勝海舟と西郷隆盛が会談したことは良く知られていますが、その会談の直前に、西郷隆盛と直談判し、勝・西郷会談をお膳立てしたのが山岡鉄舟でした。
勝海舟の使者として、鉄舟は従者と二人だけで西郷のいる静岡の伝馬町まで向かいます。
途中、川崎あたりで官軍の先遣隊に出くわしたとき、左右に隊列を組む銃隊の中央を堂々と歩いていったといいます。
と大音声で叫びながら。
その気迫と豪胆さと、死をも覚悟し、主君への忠義を貫こうとする赤誠の思いに西郷は驚嘆し、鉄舟の誠実な人柄に心打たれたといいます。
山岡鉄舟の 誕生数は③。
同じ誕生数の人は鉄舟殿と同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(34才、43才、52才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう1867.7.23~1888.7.19)
【誕生数;3】 1836.7.23 ⇒ 9.3.3 & 5
多くの人物評が言うように、竹を割ったようにカラッとまっすぐ、表裏などない性格で、いつも陽気でさわやか、フットワークも軽く一時もじっとしていることがなかっただろう。いくつになっても純粋無垢な少年の心を持ち続けていただろう。常に何かを表現したいという衝動に衝き動かされていた。
サムライであったがために、最高のサムライであるべく剣、禅、書の腕を磨き、いずれも当代最高峰のレベルに達した。弁舌も巧みだったはずで、それは西郷隆盛との駿府での会談で将軍慶喜の身柄取り扱いを幕府有利に認めさせたことからも伺える。
根っからの自由人で宮中への出仕は彼の精神を疲弊させたかもしれない。52歳で胃がんで亡くなってしまったが、原因のひとつは自由人が籠の中に入れられ自由に生きることを許されなかったが故の心理的ストレスにあったかもしれない・・・。
【頂点数と試練数】 36-3=33
【第1期】
武芸を重んじる家に生まれたため、幼少から剣術、槍術、書、禅を学ぶ。26歳で幕府の武芸訓練機関『講武所』の剣術世話役になった。西郷隆盛、勝海舟など明治維新のキーパーソン達や静岡に移ってからは清水次郎長との出会いもあった。第1期は内気さ臆病さの克服と、忍耐力が鍛錬がテーマだった。15歳頃、両親を相次いで失い、5人の弟たちを養うことになりかなり苦労している。母方の先祖に塚原卜伝がいる。
【第2期】
武術、書、禅のさらなる研鑚を続け、いずれも達人の域に達した。36歳の時、西郷隆盛や岩倉具視のたっての依頼により10年間という約束で宮中に出仕し明治天皇に仕えた。制約の多い現実に数多く取り組んだことだろう。
【第3期】
49歳の時、自らの流派、『一刀世伝無刀流』を開いた。51歳になる年、功績により子爵に叙される。一方、この時代は忍耐を要する状況が続いただろう。46歳の時、宮中を致仕したが、生来、陽気でのびのびした自由人である鉄舟には、宮中は少し窮屈だったことだろう。
【第4期】
52歳になる直前の1888年7月19日、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃がんだった。
※MEMO
※参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F
http://www.ifsa.jp/index.php?Gyamaokatesshu
数秘術で偉人をリサーチ 大久保利通【誕生数② 日本】Research the great with numerology "Okubo Toshimichi" 【№② JAPAN】
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大久保利通(おおくぼとしみち)【誕生数②/11 日本】
数秘術で偉人をリサーチ、ふたり目は明治維新の三傑の一人。大久保利通公です。なぜふたり目にご登場かというと、ただたんに誕生数が②だったから。
そしてなんと今日は『建国記念日』。かつての『紀元節』。この日に大久保公の歩んだ人生を振り返り、ブログにアップすることになるとは・・・。なんだか不思議なシンクロニシティです。
なぜなら明治維新は日本を封建国家から近代国家にリノべーションしたとも言え、まさに日本を再建国したとも言えるからです。 その維新後の新政府の中心人物こそ、大久保利通公だったのです。
明治維新から140年が過ぎ、大東亜戦争の終戦から70年が過ぎ・・・日本は70年ごとに大変革が起こっているのですが、風雲急を告げる2020年2月現在、明治維新、大東亜戦争と同レベルの出来事がヒタヒタと迫っているのかもしれません・・・。
大久保公の 誕生数は②。同じ誕生数の人は大久保公と同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(35才、44才、53才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
大久保利通(おおくぼとしみち1830.9.26~1878.5.14)
【誕生数;2/11】 1830.9.26 ⇒ 3.8.2 & 8
現実的な処理能力が恐ろしく高く、当然仕事は人の2、3倍以上もできるうえ直観力も優れ、かつ常に大局と細部の両方を把握し、なんでもお見通しという恐ろしい人物だっただろう。
物事の展開を見通しかつ冷静に熟考する理論家でもあり、判断を下したら徹底的に実行したが常人は理解できなかっただろう。卓越した統率力と義理堅く情が深く面倒見も良い懐の深さも持ち、畏怖されると同時に信頼され頼りにされていただろう。名実ともに明治新政府の柱石であり明治天皇の信頼も厚かった。まさに明治維新を遂行するためにこの時代に生まれてきたかのようだ。
感情の浮き沈みは激しかったかもしれないが人前ではそれをおくびにも出さなかったようだ。家に帰ってから大変だったらしい。
【運命数;6】OKUBO TOSHIMICHI ⇒ 3.3.6
名前の数字が持つエネルギーは、明るく陽気で社交的、話すことや人を楽しませることやイタズラが大好きで、気難しくて生真面目で冷徹とかいう世間一般のイメージとは違い、楽観的でユーモアにあふれる人物というもの。ただ35歳で改名しているため【3】の影響は軽微だったか。人一倍家族を大事にする人であり、優れた芸術的センスを持ち、美しく調和した環境を愛しただろう。そういう美しい環境を提供するため一生懸命働いた。欧米諸国を外遊してきた彼の目には、維新後の日本と言う国の有り様がお世辞にも美しいとは言えなかったからかもしれない。
【実現数;8】 2+6=8
他者の期待に応えたいと思い努力を惜しまない。対立やストレスは避けようとする。自分のことは二の次にして働こうとするので周囲から尊敬される。バランス感覚に優れ、責任感が強いため、あれこれ引き受けすぎでオーバーワーク気味だったかもしれない。
【頂点数と試練数】 36-2=34
【第1期】 第1期は35歳の誕生日の前日まで。1850年(20)お由羅騒動に巻き込まれ、父は島流しになり金銭的に困窮した。
31歳になる1861年に御小納戸役に抜擢された。この役は殿様の側近くに仕えあらゆることを手伝う仕事で異例の抜擢だったという。1863年10月(33)、江戸で薩英戦争の後始末を行う。同年、御側役に昇進。1864年7月(33)蛤御門の変勃発。その後第一次長州征伐。幕府が勝利したため幕府の力が盛り返した。以降、幕府の力を抑えることが目標になった。
【第2期】 1865年(34~35)は薩摩と京都の間を3往復し幕府と朝廷に精力的に働きかけた。薩摩藩の一家臣にすぎなかったがすでに薩摩藩の主役として働くようになった。藩の当局に自分の行動は状況に応じて自由にさせてくれと、申し入れたという記録が残っている。
1871年11月(40)~岩倉使節団の副団長として欧米諸国を訪問。イギリスの産業の近代的な素晴らしさに驚嘆し、1873年3月15日(42)ドイツではビスマルクの屋敷に招かれ、鉄血宰相として国際政治をくぐり抜け、ドイツ統一を果たした彼の経験と教訓に傾聴した。
第2期の最後の年、43歳になったばかりの1873年10月14日、征韓論の閣議で西郷隆盛たちと対決。閣議は西郷支持の決着となるも、明治天皇が征韓論反対を受け入れたため征韓論派は全員辞職。この事件は維新後最大の危機だったとされる。
事件後、大久保の政敵はいなくなり、気がつけば政府の第一人者となっていた。1873年年11月内務省を創設し初代の内務卿となり独裁的な権力を握った。
【第3期】 1878年5月14日(47)暴漢に襲われ死亡するまでの4年間は、殖産興業に力を注ぎ多くの産業を立ち上げ、自ら総裁となって万国博覧会を開き、台湾出兵の講和条約の全権大使とし北京へ赴き交渉をまとめあげ、西南戦争の指揮を執りこれを鎮圧するなど、新政府唯一無比の柱石として、権力を一手に握り、超人的な仕事ぶりで日本の近代化を怒涛のごとく強力に押し進めた。
あとがき
***************************************************************
維新後の日本の幸運は、国家権力が大久保公の掌のうえに転がり込んできたことにあり。
公は私利私欲に走ることなく、また同郷の人間だけを重用するようなこともなく、ただただ純粋に日本が繁栄し、一日も早く近代国家の一員となり、お隣の清のように欧米諸外国の植民地にだけはならないようにと、己の時間体力精神力気力のほとんどすべてを国に捧げた。時には私財を投じて国の予算がつかなかった事業を行っていたほどだった。公が亡くなった時、残った財産(現金140円)より借金(8000円)のほうが何倍も多かったことや私有財産もすべて抵当に入っていたことが証明している。
※当時の8000円は現在なら約2億円。
まさに大久保公がいなければ、日本の近代化は軌道に乗ることができなかった。それどころか空中分解してもおかしくなかったように思える。
もっと評価されてしかるべき偉大な人物だ。
※MEMO
A;誕生数
B;運命数
C;実現数
実現数 = 誕生数 + 運命数 = 2 + 6 = 8
※参照
ja.wikipedia.org
数秘術で偉人をリサーチ 高橋是清【誕生数① 日本】Research the great with numerology "Takahashi Korekiyo" 【№① JAPAN】
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高橋是清(たかはしこれきよ)【誕生数①日本】
今年もまた2月26日が近づいてきました。
84年前の2月26日・・・、
そう、あの226事件。
これも深々と雪が降る26日に起こった事件でしたから、
当然、なんらかの天意が働いていたのでしょう。
この日、凶弾に倒れた高橋是清翁に捧げます。
どうか、21世紀の日出づる国の未来を切り拓く
すべての人たちを導いてくれますように・・・。
とくに誕生数が①の人は、
是清さんと同じくらいの年齢の時に
人生の転機となるような出来事が
やって来ることでしょう。
(36才、45才、54才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。
一桁になるまで続けて出てきた数字です。
高橋是清(たかはしこれきよ 1854.9.19〜1936.2.26)
【誕生数; 1】1854.9.19⇒9.1.1&1
リーダーの中のリーダー。
生まれながらのリーダーであり真のリーダー。
宰相になるべくして生まれてきたような人。
維新直後の日本が近代国家の仲間入りを果たし、
かつ偉大な政治的リーダーに最短距離でなるよう、
純粋培養されたかのようだ。
常人離れした行動力、
決断力と類まれなる直観力を
持っていただろう。
【運命数; 7】高橋是清⇒2.5.7
好奇心旺盛で社交的な印象を与えるが
意外と控えめで優しい性格。
繊細かつ敏感で鋭い直観力洞察力も持つ。
人生において失望が学びの機会となる。
とくにカルマナンバーの16があるので
“信頼”にまつわる学びが訪れる。
ちょうど人生の第一期の最後の年に
起こったペルー銀鉱山事件のように。
【実現数; 8】1 + 7 = 8
高い地位を目指して努力する人。
中年以降に権力、権威、
もしくは財政的な報酬を手にする。
【頂点数と試練数】36-1 = 35
第一期は36歳の誕生日の前日まで。
35歳から36歳になる直前まで、
高級官僚を辞しペルーに
銀鉱山投資の責任者として行っていた。
ペルー到着後しばらくして、
銀鉱山が詐欺であることが明るみになり、
その解決に全力を尽くし
被害を最小限に抑え込んだ。
高橋是清でなかったら、
被害額は何倍~何十倍にもなっていた
と言われていて、その事後処理手腕は
非常に高く評価されたが、
日本国内では詐欺師扱いだった。
帰国後はしばらくホームレス状態
だったようです。
45歳になる年、日銀副総裁に就任。
53歳になる年、男爵授爵。
45歳以降は試練数が『0』。
82歳で凶弾に倒れるとはいえ、
それまで総理大臣をはじめ大蔵大臣、
商工大臣や農林大臣を歴任し、
無双状態と述べるほどの活躍ぶりでした。
日本が世界恐慌を世界でもっとも早く脱出できたのは
是清翁の手腕の賜物だったと言われています。
風貌が丸くて親しみやすかったため、
みんなから 『ダルマさん』と呼ばれた。
いまなお財政家として、世界的な評価も高い。
※メモ
A;誕生数
B;運命数
C;実現数
実現数=誕生数+運命数= 1 + 7 = 8
※参照
あとがき
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生まれた時から波乱万丈の人生だった是清さん。
10代前半でアメリカに渡り、
手違いで奴隷として売られてしまう。
が、結果として英語がペラペラになって
読み書きもマスターして帰国。
帰国後は仕事は引く手数多で、
嫌になって辞めてもすぐに次の仕事が見つかった。
しかもかなりの高給で。
そうしてなんだかんだで
日銀の幹部にまで出世し、
日露戦争時にはイギリスに渡り、
なかなか買い手がつかなかった
戦時国債を売り戦費を調達した。
なかなか売れなかったのは、
日本がロシアに勝つなんて
誰も夢にも思っていなかったから。
敗戦国がお金を返せるわけがない、
というのが世界の常識だった。
いま、日本がロシア領でないのは
是清さんの力に負うところ大なのです。
詳しく知りたい方は
ウィキペディアをご覧ください。
もしくは中公文庫から出版されている
『高橋是清自伝』もおススメです。
阿蘇山 仙酔峡にて 26-26再び!? Mt. Aso at Sensuikyo 26-26 again!?
今年のGW明け、阿蘇に行く機会があり、
駐車場に車を停めたら、右斜め前に26-26ナンバ-の車。
この時はたまたまだろう…と思っていた。
小一時間ほど景色を眺めたり、観光案内所で展示物を見たりした後、
車に戻り出発。
すると、ちょうど同じタイミングで出発した車が30メートル前を走っていた。
...なんと、その車のナンバ-は
26-26!!
あの右斜め前に停まっていた車だ。
そのまま後に続いて2~3㎞走ると、
左側が空地で展望台みたいになっているところがあった。
すぐ前を走る26-26はその空地に入っていった。
(決して煽っていませんよ)
これはいったい何を意味するのだろうか…?
26-26を見つけた時はたまたまだろう、と思った。
しかし、駐車場を出ようとしたら、
すぐ前を26-26が走っていた。
ほとんど同じタイミング、
ほんの一瞬、自分より先に発進していたのだ。
が、しかし、
ちょっとでも自分が早ければ先に行ってしまうし、
逆にもう30秒遅かったら、別の車が間に入っていたかもしれないし、
そうでなかったとしても車間距離が離れすぎて2626というナンバ-に気づかないだろう…
完全にベストのタイミングで、このシンクロニシティは起動している!!
以上から、このシンクロニシティは、間違いなくなにか意味がある…
と判断した。
思い当たるとしたら…、
この頃、2018年末からJレッドフィ-ルド氏の
『聖なる予言』シリ-ズを読んでいて、
この日も仙酔峡の駐車場でも、同シリ-ズの『第12の予言』を読んでいたことだ。
このJレッドフィ-ルド氏の『聖なる予言』シリ-ズを貫くテ-マは
特に、この『第12の予言』のテーマは…
“人類は宗教を越えて次の段階に進化する”
というものなのだ。
つまり、
26-26=ヤーヴェの神=伊勢の神
が言わんとするところは…
神はいつも見守っているが、
子がいつかは母親から乳離れして、
自立するように…
人類もそういうタイミングに差し掛かっている…、
そのことに汝気づくべし…
ということなのかもしれない。
そろそろ人類は、宗教という古い縛りから自立し、
対立しているのならとっとと和解し、
協調し、そして宗教を越えていかなければならないのだろう。
だが無神論者になれ、というのではなく、
『第12の予言』の中で著者は、
人は神の実在を確信するようになり、
神は常に自分とともにあるということがわかるようになるから、
宗教は必要なくなる...
という意味のことを書いている。
そう、もう人類は2000年以上も宗教的対立をやってる場合ではなく、
そもそも、どの宗教も同じ神なのだから(看板が違うだけ)
宗教を越えていかなければならい時だということなのだろう。
そして、人類は協調してより進化し、
新しい時代を築いてく時期ですよ...
というメッセージのように感じた。
このJレッドフィ-ルド氏の『聖なる予言』は、1993年に著者自身が自分で出版社を設立する形で出版され、口コミでじょじょに売れていき、しばらく後、大手出版社が版権を買い取り、1994年の全米ベストセラ-になっています。その後世界中でもベストセラ-のなり、なんと日本でも100万部を超えるヒットとなりました。
聖なる予言シリ-ズは全4冊あり、はいずれも主人公が共時性(シンクロニシティ)に導かれて物語が進んでいくところが特徴です。この本を読むとシンクロニシティに気づくのが上手になると思いますよ。
もっとかんたんにシンクロニシティのことを知りたいなら、
今年の6月に発売された、佐藤由美子さんの『シンクロちゃん』(フォレスト出版)がおススメです。シンクロニシティのことを漫画も交えて書いてあり、さらっと読めてとっても分かりやすいです。
聖なる予言シリ-ズをちょうど読み終えたくらいに出版されて、
『シンクロちゃん』とシンクロしていた!?...という、
ちょっとビックリしましたヨ!!
伊勢神宮参拝 26という数字に導かれて Visiting Ise Jingu, guided by the number 26
印象深い出来事があったので忘れないうちにメモしときます。
午前9時頃、車で名古屋市内を出発、伊勢市に近づいてくると20㎞くらい渋滞&伊勢西インターは大型車と許可車両のみ通行可、と言う情報が案内板に。
これは時間がなくなるかも!?と思っていたら、伊勢西インターの次の伊勢インターで、幸運にもすんなり降りることができたので外宮に向かう。途中、少し混んではいたけど昼過ぎに到着。
御垣内参拝をさせていただき、内宮へ。
ところが、外宮~内宮間の道路は大渋滞で歩いたほうが早いくらい。
正月でもGWでもないから大丈夫だろう、と考えていたんだけど甘かったようです。
駐車場もすべて満車表示。どうしようか?と悩んでるうちに、川を越え、競技場前の信号も越え、トンネルに入ってしまった。トンネルの中の反対車線も大渋滞で、たまりかねて車のドアを開けて降りようとしていた60代くらいの男性もいたほどだ。
そのまま32号線を志摩磯部方面に向かうも、いま引き返してもあの大渋滞では到底間に合わない・・・、今日の内宮参拝は、もう難しい・・・と気持ちは半分諦めていた。
そんな絶望的な気持ちのまま、そのまましばらく走り続けた。
その時フト、ずっと前を走っていた車のナンバーが目に入った。
26-26 !!
26がふたつ!
これは間に合う・・・かもしれない!?
直観的にそう感じた。
なぜなら、26とは、ゲマトリア(ゲマトリア (גימטריה) はヘブライ語およびヘブライ文字の数秘術であり、聖書の言葉に隠された意味を読み解く神秘主義思想カバラの一部をなす)では、ヤーヴェの神を表す数字だったからだ。
伊勢の神とヤーヴェの神!? 関係ないんでは?という人も多いでしょう。
解説すると長くなるので、こちらの方のブログが参考になります。
↓
そう、つまり、26とは伊勢の神を意味するナンバーだということ。
この【26-26】というナンバープレートを見た時、99%諦めていた心に希望の火が灯った。
この車についていけ! 引き返すな! 前進せよ!
という意味だと感じた。
そうなると引き返す選択肢はなくなった。
でも直進するとしても2コースある。
鳥羽方面から迂回して戻る道と、
伊勢神宮の奥の山々を越える峠道、いちおう12号線と地図には書いてあるから通れるはず、
のふたつだ。
鳥羽方面から戻っても、結局大渋滞につかまって、間に合う可能性は低い。
であれば、選択肢はひとつ!
県道12号線、通称『剣峠』を進むのみ!と決断。
途中にコンビニがあったのでちょっと買い物をして休憩したが、このときまで、まだ不安のほうが大きかったけど、『えーい、ままよ』という、すべて伊勢の神にお任せするしかない、という気持ちになっていた。
また走りだして海岸近くの道(これを書いてるとき、この道は260号線だということに気づく)を走っていたら、前方上空に彩雲がでていた。
この時点で16時は回っていたのだけど、この彩雲は瑞祥!!と受け取り、
時間内に内宮にたどり着けるに違いない、という根拠のない自信が湧いてきた。
県道12号線は、、、かなりハードな道でした。ただし途中ですれ違った車はたったの2台だけでした。
詳しくは、マルデンさんのブログ『日々のさまよい』がすごく参考になります。
南勢の五ヶ所と伊勢を結んだ剣峠〜2016冬至伊勢行(4) | 日々のさまよい
結論を言うと、運転に自信の無い人は通らないほうがいいと思います。ガードレールもなく、道のすぐ横は断崖という箇所も多く、ハンドル操作を一瞬でも誤れば谷底にまっさかさまです。日が暮れてからなど暗い時もやめたほうがいいです。もし通るなら軽自動車か小型車がいいです。離合ができない箇所がほとんどです。
ただ自然は素晴らしい。特に剣峠の向こう側の伊勢神宮の神域のほうは、植林の樹木など一切なく、森は明るく、陽光が斜面にまで差し込み、よそでは見たことのないような、でもこれが日本本来の自然なんだ、ということにハッと気づかされ、緑と光のコントラストと植生の美しさには感動せずにはいられません。
そして、最高地点の剣峠、ここがまたなんとも言えないほど強烈な印象の場所でした。
峠には自然にできたとは思えないような、両側に巨石が切り立っていて、まるで伊勢の神域に侵入する、すべてのまがまがしきものを遮断しているような、なにかしら結界のようなものがあるような感じです。明らかに、この峠の向こう側とこちら側では空気が違う。人工的に道を作ったのか、自然にこうなったのかは謎でしたが。
伊勢志摩側の少し広くなってる場所には、石造の案内板や野口雨情の石碑があります。
そういうわけで、無事、17時10分すぎに内宮、宇治橋鳥居前の駐車場にたどり着き、すんなり車も停められた。18時が閉門だったようで、間に合って本当に良かった。
さすがに御垣内参拝はもう締め切っているだろう、17時過ぎてるし・・・と半ば諦めつつ、速足で進んでいくと、17時30分ぐらいだったのですが、神職さんが快く受け入れていただき、ものすごく感激でした。
一度はあきらめたものの、伊勢の神に導かれ、ほとんどだれも通らない裏山の峠を越えて、たどり着くことができたように思えてなりません。
しかし、これも26という数字の持つ意味を知らなかったら、あきらめて帰ってしまっていたでしょう。
そういう意味では、身の回りに現れる数字はすべてメッセージなんだ、とあらためて思い知らされました。
気づかない場合が多いので、現れる数字はもちろん、インスピレーションやシンクロニシティにももっと耳を澄ましていこう、と実感した次第でした。