数秘術で偉人をリサーチ 大村益次郎【誕生数⑤ 日本】Research the great with numerology "Omura Masujiro" 【№⑤ JAPAN】
秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology
大村 益次郎(おおむらますじろう)【誕生数⑤ 日本】
維新10傑の一人であり、大久保公と同じく40代半ばでこの世を去ってしまった維新の巨星。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となりました。
戊辰戦争後、凶刃に襲われるまでの約3ヶ月の間に、その後の日本陸軍の創設に重要な影響を与える決断を矢継ぎ早に下し、
そういう理由で靖国神社の参道中央にいつも立っていらっしゃいます。
もし大村益次郎があと20年生きていたら、その後の歴史は違ったものになっていたように思えてなりません。
大村益次郎の 誕生数は⑤。
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(32才、41才、50才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
大村益次郎(おおむらますじろう 1824.5.30~1869.12.7)
【誕生数;5/14】 1824.5.30 → 6.8.5 & 3
語学の才能に優れ、読み書き話す、さらには外国語の翻訳も独学で習得してしまうほど、語学に関しては生まれつき天賦の才があったようだ。誠実で裏表ない性格であり非常に高いエネルギーの持ち主、好奇心旺盛で行動力も備え、様々なことに興味を持っていたのだろう。
そして、それら興味の対象を冷静に観察分析して論理的に思考し、自分なりの仮説を導き出す頭脳の持ち主であっただろう。大局と細部の両方が見えている人であり、大将軍の器だった。
既存の枠組みに囚われない自由な発想と思考を持っており、それが時にはあまりにもドラスティックだったり、周囲からは理解不能に思われ、急激な変化を好まない人間たちからは煙たがられたかもしれない・・・。
【頂点数と試練数】 36-5=31
第1期
20代半ばまでに当時の最先端の西洋兵学・蘭学を習得した。オランダ語の本の翻訳も難なくこなした。第1期の後半、26歳~30歳の約4年間だけがのんびり暮らせた時代だった。31歳の時、村田蔵六と改名。同年、長崎に行き軍艦建造の研究を行う。そこで自分を看取ることになるシーボルトの娘楠元イネと出会う。
第2期
第1期で学んだことを私塾を通して多くの人に教えるとともに、さらにヘボンのもとで英語も学ぶなど学びを深めた。32歳の年、江戸に出た。江戸では私塾を開塾。幕府の蕃書調書教授方手伝、33歳の年、講武所教授になる。34歳の年、長州藩上屋敷で開催された蘭書会読会に参加し兵学の講義を行った際、木戸孝允と出会う。これを機に江戸在住のまま長州藩士になる。第2期の後半、激動の第3期の準備をするかのように、39歳の年、萩に帰国する。40歳の年、藩の多くの重要な仕事に関わった。
第3期
41歳の年、上海に隠密に渡る。同年、高杉晋作から奇兵隊などの指導を要請される。木戸孝允からは10万取の上士に推挙される。同年、大村益次郎と改名。不思議と人生の転機のタイミングで改名している。それからは8の時代の通り、お金、権力、権威の旗印のもとに、その才能を最高潮に発揮し、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争終結まで、新政府軍の総司令官として指揮を執った。戦後もドラスティックに軍隊の創設について考えていたが、大久保利通らとは考えが合わなかった。大村の考えを理解できない不満士族たちによる刺客に襲われ45歳の若さでこの世を去った。
※MEMO
A;誕生数
※参照