数秘術で偉人をリサーチ 木戸孝允【誕生数⑦ 日本】Research the great with numerology "Kido Takayoshi" 【№⑦ JAPAN】
数秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology
木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)ら。明治3年(1870年)撮影。
木戸 孝允(きどたかよし) 【誕生数⑦ 日本】
数秘術で偉人を分析シリーズ、7人目は維新三傑のひとり、木戸孝允。
和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くという。
そしてその毛利家は、源頼朝の鎌倉幕府創建に大きく貢献した大江広元を祖とするという。
木戸孝允公もまた、明治新政府において、西南戦争勃発までの間、中心的役割を務めたが、大江氏の血脈は国家の非常事態時に目覚めるようです。
木戸孝允公の 誕生数は⑦。なお⑦は⑯というカルマナンバーという解釈もできます。加えて生まれ日は⑪日、生まれ月+生まれ日は⑲でカルマナンバー、誕生数を構成する主要なナンバーがマスターナンバーとカルマナンバーだという、
木戸公もやはり、日本の歴史の転換期に大きな使命を持ってこの世に誕生してきた人なのでしょう。ご先祖で同じ使命を持って活躍した人もいますしね。そういう家系なのだと思います。
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(30才、39才、48才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
木戸孝允(きどたかよし 1833.8.11~1877.5.26)
【誕生数;7】1833.8.11 → 6.1/19.7 & 11
時代の先を察知し、事が起こる前に勘付く直観力を持っていただろう。人に見えない世界が見えていた。新しいこと最先端なもの革新的なことが大好き。大胆かつ神がかり的なリーダシップを発揮しただろう。その一方状況を冷静に論理的に分析し、いくつもの仮説を立てて、自らの直観と合わせ未来を予測することもできた人だろう。常にインスピレーションが溢れるように湧くとともに、行動は迅速で大胆かつ繊細で革新的、本能のまま行動しながら冷静に自分を顧みることができただろう。
【頂点数と試練数】 36-7=29
第1期
【頂点数;1/19】 自分を主張し革新的になる。新政府のリーダーとなるべく鍛えられた。
【試練数;6】 責任を担い他者に尽くし人の世話をし育てる。
医者の家に生まれるが病弱ということで武家に養子に出される。剣術を学び兵学、儒学、漢文など武士として必要な素養を修め最高レベルに達した。吉田松陰からも認められるほどで江戸に出ている間も時代の最先端の知識や技術を学ぶことを怠らなかった。
西洋兵学や小銃術、砲台築造術、造船術、洋式帆船造船術、英語など。第1期の終わる頃には長州藩中枢で頭角を現し始めていた。
第2期
【頂点数;8】 現実的な成功の機会がもたらされる。
【試練数;4】 制約の多い現実にも取り組むことになる。
ちょうど転機の30歳前後は、下関での攘夷戦争や禁門の変とその後の潜伏生活、第一次長州征伐と激動に巻き込まれた。何度も死地に遭遇したことだろう。高杉晋作の挙兵後、藩の権力を奪還すると藩の統率者として迎えられた。以後、軍政改革と藩政改革に邁進した。
32歳の時、薩摩の西郷たちと何度も会談し薩長同盟を結ぶ。第二次長州征伐に勝利、翌年大政奉還となった。新政府においても庶政全般の実質的最終決定責任者となり、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行った。頂点数の通り、現実的な成功の機会がもたらされた。
一方、大久保利通との政治的路線の違いがだんだん生じてきて、制約の多い現実にも直面した。そしてちょうど第2期の終わる38歳になったばかりの頃、岩倉使節団全権副使として欧米視察に出ることになった。
第3期
【頂点数;9】 学びを統合し世界に恩返しをする時。物質的精神的な富と成熟の感覚。
【試練数;2】 耐え忍ぶ状況は続く。
40歳になったばかりのタイミングで欧米視察から戻った。39歳からが転機のタイミングだったが丸々外国で過ごした。帰国後は憲法の制定、二院制議会の設置など欧米で見聞してきたことで日本に取り入れることが可能なことを積極的に訴え、国民教育の充実、天皇教育の充実に取り組んだ。
物質的精神的には何不自由なかっただろうが、39歳の時、台湾出兵に抗議して参議を辞職した。
1877年2月、西南戦争勃発。明治天皇と京都まで出張するが持病が悪化し朦朧状態になる。そのまま5月26日、見舞いに来ていた大久保利通の手を握り締め「西郷もいいかげんにしないか」という言葉を発したのを最後に息を引き取った。
奇しくも西郷とは同じ誕生数であるが、維新三傑と呼ばれたこの二人は同じタイミングでこの世を去った。
あとがき
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木戸公は長男でしたが、病弱で長生きしないと思われていて、7歳でお向かいの武士の家の桂家に末期養子に出されました。病弱とは言うものの生粋の悪童だったようで、船頭ごと船を転覆させて快哉を叫ぶ、とかいう悪戯に熱中していたそうです。なんとおおらかな時代だったのか!? しかし本当に病弱だったんでしょうか?
さすが源義家に兵法を教えた大江匡房、鎌倉幕府のブレーンだった大江広元、楠正成に『孫子』や『闘戦経(とうせんきょう)』など兵書を教授した大江時親の流れを受け継ぐだけあり頭脳明晰だったようで、10代の頃、藩主毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受けたそうです。
その親試の内容とは、即興で漢詩を作ることと、『孟子』の解説だとか。10代で孟子を理解して、それを藩主の殿様に解説する・・・、よく出来たので褒賞までいただく・・・。
もう神童だったとしか思えないですね。そういうわけで木戸公はこの頃から若き俊英として注目され始めました。
あの吉田松陰からは「事なすの才あり」と評価され、さらに「桂は我の重んずるところなり」と言わしめ、親友関係にありました。
現代なら早熟な天才児といったところですが、木戸公の凄さは、頭脳派というだけではなく、剣術でも当代随一の腕前の持ち主だったことです。さらには柔術の心得もあったといいます。
坂本龍馬も剣術の腕は超一流だったことは有名ですが、木戸公と坂本龍馬は江戸で試合をしていた、という記録が近年見つかりました。それによれば木戸が3対2で勝利してます。恐るべしかな桂小五郎。
文武両道にしてそのレベルはどちらも当時の日の本最高レベルだったのです。たとえるならスポーツ万能なのに成績もいつも一番・・・といったとこでしょうか。
さらにその人となりも、維新前から藩政の権力を握る中心人物であり、維新後も新政府の中心人物であり、若い時には江戸で三大道場のひとつと呼ばれた練兵館(神道無念流)で5年間も塾頭を務めあげたほどの達人であったにも関わらず、偉ぶることもなく、威圧的でもなく、気さくで親切で穏やかで陽気で話好きで、だれに対しても誠実だったそうです。
目下の意見にも耳を傾け、よく部下を引き立てたそうです。剣術の達人でもありましたが何事も平和裏に処理することを好みました。そのためついたあだ名が「逃げの小五郎」なのでしょう。
体格も当時の日本人男性にしては大柄だったようで、174㎝だったという記録が残っていますが、顔だちも西洋人ぽく彫が深く、岩倉使節団で海外を回っていたとき、ヨーロッパのどこの国に行ってもモテモテだったとか。
つまり、木戸公は人間性も能力も、そしてその外見も、非の打ちどころのない完璧な人物だったようです。
しかしながら幕末~維新後の激動の時代を生き抜いた代償として、無理がたたったのでしょう、30代の頃からいろいろな病に侵されてしまいます。特に明治政府は急進派から守旧派まで、絶え間なく権力闘争を繰り広げていて、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかったといいます。
例えるなら木戸公は軍師のようであり、かつ剣豪でもあり、さらには温厚で陽気な社交家で、外見も威風堂々にしてイケメンという、人物的にも魅力的でだれからも慕われたという稀有な人物でした。例えるなら諸葛孔明と関羽雲長を足してイケメンにしたような感じでしょうか。
そういうわけで天は二物も三物も、いや持てるだけの能力を木戸公に与えて、維新期の危機のタイミングに、この世に送り出したかのように思えてなりません。
21世紀の木戸公も、そろそろ現れる頃ではないでしょうか・・・?
岩倉使節団。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
※MEMO
A;誕生数
※参照
数秘術で偉人をリサーチ 夏目漱石【誕生数⑥ 日本】Research the great with numerology "Natsume Soseki" 【№⑥ JAPAN】
数秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology
夏目 漱石(なつめそうせき)【誕生数⑥ 日本】
本名は夏目金之助。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、華やかで恵まれた人生を送った、と誰もがイメージしている偉人ですが、その生涯は意外にも過酷なものでした。
名主の家に生まれますが、時は明治維新後、家は傾きつつあり、里子に出されたり養子に出されたりかなり苦労しています。20歳の時には長兄、次兄を相次いで亡くし、24歳の時は、慕っていた三兄の妻と死別と、次々に近親者を亡くしています。
漱石自身も子供の頃から疱瘡を病んだり、腹膜炎(虫垂炎)のため大学予備門を落第したり、厭世主義、神経衰弱に陥ったり、留学中のイギリスでは肺結核にかかったり、胃潰瘍には一生苦しめられます。
漱石の作品は、世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれましたが、漱石自身にはそんな余裕などなく、常に病気に悩まされていたのです。
漱石のすべての作品は、そんな精神的肉体的に苦しみもがいた中から生み出されたものだったのです。大学予備門は腹膜炎で落第するものの、以後はほとんどの科目で首席と、成績は超優秀でした。特に英語が頭抜けて優れていたそうです。
夏目漱石の 誕生数は⑥。
なお⑥は⑥でも㉝というマスターナンバーでもあります。
加えて誕生日の2月9日は⑪、生まれ年の1867年は㉒であり、誕生数を構成するナンバーがすべてマスターナンバーだという、スケールが大きく、かつ特殊な人生を送るべくこの世に誕生してきた人だと言えるでしょう。
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(31才、40才、49才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
夏目 漱石(なつめそうせき 1867.2.9~1916.12.9)
【誕生数;6/33】1867.2.9 → 4.2/11.6/33 & 9
品行方正、謙虚で礼儀正しく、自己中心的要素がまるでない性格。常に自分より他者を優先し、誰かの役に立つこと、サポートする行動をとってしまう。自己犠牲、自己奉仕であることがデファクトスタンダードの人。ものすごく感受性が繊細、普通の人が感知しえない感覚があっただろう。霊能者であったかもしれない。
誕生数を構成する数字がすべて11、22、33というマスターナンバーであり、生まれ日も9というスピリチュアルな数字であるため、普通の平凡なありきたりな幸せな人生など送れるはずはない。
そのかわり文豪として歴史に名を刻み、後世に大きな影響を与えた。33の6のナンバーを持つ人は、33歳の時に大きなイベントが起こるが、漱石はこの年、イギリスに留学することになる。
【頂点数と試練数】 36-6=30
第1期
【頂点数;2/11】 協力の時代でありスポットライトが当たる。
【試練数;7】 深刻な状況も訪れる。深いスピリチュアルな問題に直面する。
幼少の頃は里子や養子に出されたりして苦労したが、頭脳明晰であったため帝国大学英文科に進学する。同窓生だった正岡子規との出会いから文学的人間的影響を受ける。その正岡子規の家で作家になるきっかけとなる高浜虚子と出会う。俳句結社『松風会に参加』したり、俳壇でも活躍し、名声を上げていく。
一方、この時期に身内を立て続けに亡くす。とくに三兄の妻、夏目登世には恋心を抱いていたそうで心に深い傷を負ったという。この時期すでに厭世主義、神経衰弱に陥り始めていたようだ。
第2期
【頂点数;4/13】 第1期の経験により評価が高まる。
【試練数;5】 外側の世界での成長を目指し励むよう仕向けられる。
第1期での経験が花開き文学者としての評価が高まった。31歳の年、俳句結社『紫溟吟社』を興し俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。1905年1月『吾輩は猫である』を発表。続く1906年4月『坊ちゃん』を発表。一方、試練数5にあるように、イギリスに留学し国際的視野を得ることになった。
第3期
【頂点数;6】 他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。
【試練数;2】 耐え忍ぶ状況。
第3期の最初の年、40歳になったすぐの4月に、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。
養父の塩原昌之助には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続いた。1908年3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。
この時期精力的に作品を発表するが、年々病気がちになっていく。肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。職業作家という生き方が、漱石の神経をすり減らし胃腸にダメージを与えていたのかもしれない。
第4期
【頂点数;6】 他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。
【試練数;2】 耐え忍ぶ状況。
第4期の最初の年の12月9日、午後7時前、胃潰瘍により死去。
※MEMO
A;誕生数
※参照
数秘術で偉人をリサーチ 大村益次郎【誕生数⑤ 日本】Research the great with numerology "Omura Masujiro" 【№⑤ JAPAN】
秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology
大村 益次郎(おおむらますじろう)【誕生数⑤ 日本】
維新10傑の一人であり、大久保公と同じく40代半ばでこの世を去ってしまった維新の巨星。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となりました。
戊辰戦争後、凶刃に襲われるまでの約3ヶ月の間に、その後の日本陸軍の創設に重要な影響を与える決断を矢継ぎ早に下し、
そういう理由で靖国神社の参道中央にいつも立っていらっしゃいます。
もし大村益次郎があと20年生きていたら、その後の歴史は違ったものになっていたように思えてなりません。
大村益次郎の 誕生数は⑤。
同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(32才、41才、50才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
大村益次郎(おおむらますじろう 1824.5.30~1869.12.7)
【誕生数;5/14】 1824.5.30 → 6.8.5 & 3
語学の才能に優れ、読み書き話す、さらには外国語の翻訳も独学で習得してしまうほど、語学に関しては生まれつき天賦の才があったようだ。誠実で裏表ない性格であり非常に高いエネルギーの持ち主、好奇心旺盛で行動力も備え、様々なことに興味を持っていたのだろう。
そして、それら興味の対象を冷静に観察分析して論理的に思考し、自分なりの仮説を導き出す頭脳の持ち主であっただろう。大局と細部の両方が見えている人であり、大将軍の器だった。
既存の枠組みに囚われない自由な発想と思考を持っており、それが時にはあまりにもドラスティックだったり、周囲からは理解不能に思われ、急激な変化を好まない人間たちからは煙たがられたかもしれない・・・。
【頂点数と試練数】 36-5=31
第1期
20代半ばまでに当時の最先端の西洋兵学・蘭学を習得した。オランダ語の本の翻訳も難なくこなした。第1期の後半、26歳~30歳の約4年間だけがのんびり暮らせた時代だった。31歳の時、村田蔵六と改名。同年、長崎に行き軍艦建造の研究を行う。そこで自分を看取ることになるシーボルトの娘楠元イネと出会う。
第2期
第1期で学んだことを私塾を通して多くの人に教えるとともに、さらにヘボンのもとで英語も学ぶなど学びを深めた。32歳の年、江戸に出た。江戸では私塾を開塾。幕府の蕃書調書教授方手伝、33歳の年、講武所教授になる。34歳の年、長州藩上屋敷で開催された蘭書会読会に参加し兵学の講義を行った際、木戸孝允と出会う。これを機に江戸在住のまま長州藩士になる。第2期の後半、激動の第3期の準備をするかのように、39歳の年、萩に帰国する。40歳の年、藩の多くの重要な仕事に関わった。
第3期
41歳の年、上海に隠密に渡る。同年、高杉晋作から奇兵隊などの指導を要請される。木戸孝允からは10万取の上士に推挙される。同年、大村益次郎と改名。不思議と人生の転機のタイミングで改名している。それからは8の時代の通り、お金、権力、権威の旗印のもとに、その才能を最高潮に発揮し、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争終結まで、新政府軍の総司令官として指揮を執った。戦後もドラスティックに軍隊の創設について考えていたが、大久保利通らとは考えが合わなかった。大村の考えを理解できない不満士族たちによる刺客に襲われ45歳の若さでこの世を去った。
※MEMO
A;誕生数
※参照
数秘術で偉人をリサーチ 東郷平八郎【誕生数④ 日本】Research the great with numerology "Togo Heihachiro" 【№④ JAPAN】
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東郷 平八郎(とうごうへいはちろう)【誕生数④ 日本】
日露戦争の日本海海戦において、当時世界第2位の海軍力を誇ったロシアのバルチック艦隊を打ち破った提督として世界を驚かせましたが、東郷提督の神がかり的な運の良さは若い頃から有名だったようです。
もし平和な時代であれば、東郷さんは優秀な鉄道技術者になっていたのかもしれません。
数秘術を通して見ると、東郷さんは平和を愛し、芸術を愛し、手先が器用で、何か役に立つものを製造したり修理したりするのが大好きな職人気質の人で、家族思いの優しい人であったことが良く分かるからです。
20代前半の頃、イギリスに留学しましたが、東郷さん自身の希望は鉄道技術者になることでした。
しかし、時代がそれを許しません。同郷の大先輩、西郷隆盛に説得されて海軍軍人になるための学校に入学することになったからです。
東郷提督の 誕生数は④。
同じ誕生数の人は東郷提督と同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(33才、42才、51才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
東郷平八郎(とうごうへいはちろう 1848.1.27~1934.5.30)
【誕生数;4/13】 1848.1.27 → 3.1.4 & 9
寛容で穏やか、礼儀ただしく謙虚、でしゃばるようなことはせず常に一歩引いて全体を観察している人。その一方でリーダーシップが必要とされる場面ではソツなくリーダーとしての能力を発揮しただろう。
聡明かつ真面目な努力家でもあり上司には忠実。規律正しく、周りからの信頼も厚く、何事も忍耐強くきめ細かく慎重に対処し行動に移しただろう。手先が器用だったはずでイギリス留学を希望した最初の動機は鉄道技師になることだった。
しかし同郷の偉大な先輩、西郷隆盛に説得され海軍軍人となるべく約7年間に渡り、根気よくイギリスで修業を積んだ。頑固さが玉に傷であるが晩年その傾向が顕著になっていったようだ。
【運命数;6】 TOGO HEIHACHIRO → 6.9.6
芸術を愛し、家族や身内を大事にし面倒見がいい人。生まれつきだれからも好かれ可愛がられただろう。美食家でもありイギリスで食べたビーフシチューが忘れられず、その味を再現しようとして日本で初めて肉じゃがを創作した人とも言われる。
奉仕する人であり、理想に生きる人であり、法律や伝統を守る人。バランス感覚、判断力に優れていた。責任感が人一倍強かっただろう。
本来、競争心などなく、安全を求め、他者のために動く人。若い頃から戦場にあり悲惨な光景を目にしていたので東郷は戦争が大嫌いだった。
【実現数;1】 4+6=1
偉大なリーダーとなるべく生まれてきた人。生まれる前、自分に課した人生の目的を果たし天命を全うした。生涯を通じて強運であり、まさしく幸運の女神に守護され愛された人だった。
【頂点数と試練数】 36-4=32
第1期
10代の時から幕末の動乱に巻き込まれた。1862年(14)薩英戦争に従軍。戊辰戦争では春日丸に乗り込み阿波沖海戦、函館戦争、宮古湾海戦を戦う。この時からすでに東郷は『運がいい』と噂されていた。維新後はイギリスに7年間も官費留学し徹底的に海の男として鍛えられた。これらの経験はすべて偉大なる海軍大将につながっていった。
第2期
30歳で日本に帰国後はさまざまな海軍の軍艦の艦長を務めた。海軍軍人として操艦技術や命中精度など海軍力の向上に努めただろう。38歳から40歳にかけて体調を崩し病気療養が続いた。
第3期
42歳の年に呉鎮守府参謀長となる。日清戦争の高陸号事件ではイギリス仕込みの国際法の知識に基づく行動が正しかったことが証明され世界的に有名になった。日清戦争後も一時病床に伏す。そのため東郷は海軍内にあっては本流ではなく傍流であり、病気がちで目立たない存在と見なされていた。
第4期
50歳で中将になった。51歳で佐世保鎮守府の司令長官に就任。53歳の時、新設の、舞鶴鎮守府初代司令長官に就任。この人事は閑職への移動とよく言われるが、実際は対露戦を想定したロシアのウラジオストク軍港に対峙する重要ポストだったようだ。東郷本人は中央への移動を希望していたという。
※MEMO
A;誕生数
B;運命数
C;実現数
実現数 = 誕生数 + 運命数 = 4 + 6 = 1
※参照
黄昏怪奇譚 『運の不思議。東郷平八郎と山本五十六にみる運の良し悪し』
2016年 強運東郷平八郎と東郷坂歴史散歩
武田鉄矢 今朝の三枚おろし テーマ『運という技術』1週間まとめ
数秘術で偉人をリサーチ 山岡鉄舟【誕生数③ 日本】Research the great with numerology "Yamaoka Tesshu" 【№③ JAPAN】
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山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)【誕生数③ 日本】
数秘術で偉人を分析シリーズ、3人目は、幕末の三舟と呼ばれた『山岡鉄舟』殿。
江戸城総攻撃の前に、勝海舟と西郷隆盛が会談したことは良く知られていますが、その会談の直前に、西郷隆盛と直談判し、勝・西郷会談をお膳立てしたのが山岡鉄舟でした。
勝海舟の使者として、鉄舟は従者と二人だけで西郷のいる静岡の伝馬町まで向かいます。
途中、川崎あたりで官軍の先遣隊に出くわしたとき、左右に隊列を組む銃隊の中央を堂々と歩いていったといいます。
と大音声で叫びながら。
その気迫と豪胆さと、死をも覚悟し、主君への忠義を貫こうとする赤誠の思いに西郷は驚嘆し、鉄舟の誠実な人柄に心打たれたといいます。
山岡鉄舟の 誕生数は③。
同じ誕生数の人は鉄舟殿と同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(34才、43才、52才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう1867.7.23~1888.7.19)
【誕生数;3】 1836.7.23 ⇒ 9.3.3 & 5
多くの人物評が言うように、竹を割ったようにカラッとまっすぐ、表裏などない性格で、いつも陽気でさわやか、フットワークも軽く一時もじっとしていることがなかっただろう。いくつになっても純粋無垢な少年の心を持ち続けていただろう。常に何かを表現したいという衝動に衝き動かされていた。
サムライであったがために、最高のサムライであるべく剣、禅、書の腕を磨き、いずれも当代最高峰のレベルに達した。弁舌も巧みだったはずで、それは西郷隆盛との駿府での会談で将軍慶喜の身柄取り扱いを幕府有利に認めさせたことからも伺える。
根っからの自由人で宮中への出仕は彼の精神を疲弊させたかもしれない。52歳で胃がんで亡くなってしまったが、原因のひとつは自由人が籠の中に入れられ自由に生きることを許されなかったが故の心理的ストレスにあったかもしれない・・・。
【頂点数と試練数】 36-3=33
【第1期】
武芸を重んじる家に生まれたため、幼少から剣術、槍術、書、禅を学ぶ。26歳で幕府の武芸訓練機関『講武所』の剣術世話役になった。西郷隆盛、勝海舟など明治維新のキーパーソン達や静岡に移ってからは清水次郎長との出会いもあった。第1期は内気さ臆病さの克服と、忍耐力が鍛錬がテーマだった。15歳頃、両親を相次いで失い、5人の弟たちを養うことになりかなり苦労している。母方の先祖に塚原卜伝がいる。
【第2期】
武術、書、禅のさらなる研鑚を続け、いずれも達人の域に達した。36歳の時、西郷隆盛や岩倉具視のたっての依頼により10年間という約束で宮中に出仕し明治天皇に仕えた。制約の多い現実に数多く取り組んだことだろう。
【第3期】
49歳の時、自らの流派、『一刀世伝無刀流』を開いた。51歳になる年、功績により子爵に叙される。一方、この時代は忍耐を要する状況が続いただろう。46歳の時、宮中を致仕したが、生来、陽気でのびのびした自由人である鉄舟には、宮中は少し窮屈だったことだろう。
【第4期】
52歳になる直前の1888年7月19日、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃がんだった。
※MEMO
※参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F
http://www.ifsa.jp/index.php?Gyamaokatesshu
数秘術で偉人をリサーチ 大久保利通【誕生数② 日本】Research the great with numerology "Okubo Toshimichi" 【№② JAPAN】
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大久保利通(おおくぼとしみち)【誕生数②/11 日本】
数秘術で偉人をリサーチ、ふたり目は明治維新の三傑の一人。大久保利通公です。なぜふたり目にご登場かというと、ただたんに誕生数が②だったから。
そしてなんと今日は『建国記念日』。かつての『紀元節』。この日に大久保公の歩んだ人生を振り返り、ブログにアップすることになるとは・・・。なんだか不思議なシンクロニシティです。
なぜなら明治維新は日本を封建国家から近代国家にリノべーションしたとも言え、まさに日本を再建国したとも言えるからです。 その維新後の新政府の中心人物こそ、大久保利通公だったのです。
明治維新から140年が過ぎ、大東亜戦争の終戦から70年が過ぎ・・・日本は70年ごとに大変革が起こっているのですが、風雲急を告げる2020年2月現在、明治維新、大東亜戦争と同レベルの出来事がヒタヒタと迫っているのかもしれません・・・。
大久保公の 誕生数は②。同じ誕生数の人は大久保公と同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(35才、44才、53才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。
大久保利通(おおくぼとしみち1830.9.26~1878.5.14)
【誕生数;2/11】 1830.9.26 ⇒ 3.8.2 & 8
現実的な処理能力が恐ろしく高く、当然仕事は人の2、3倍以上もできるうえ直観力も優れ、かつ常に大局と細部の両方を把握し、なんでもお見通しという恐ろしい人物だっただろう。
物事の展開を見通しかつ冷静に熟考する理論家でもあり、判断を下したら徹底的に実行したが常人は理解できなかっただろう。卓越した統率力と義理堅く情が深く面倒見も良い懐の深さも持ち、畏怖されると同時に信頼され頼りにされていただろう。名実ともに明治新政府の柱石であり明治天皇の信頼も厚かった。まさに明治維新を遂行するためにこの時代に生まれてきたかのようだ。
感情の浮き沈みは激しかったかもしれないが人前ではそれをおくびにも出さなかったようだ。家に帰ってから大変だったらしい。
【運命数;6】OKUBO TOSHIMICHI ⇒ 3.3.6
名前の数字が持つエネルギーは、明るく陽気で社交的、話すことや人を楽しませることやイタズラが大好きで、気難しくて生真面目で冷徹とかいう世間一般のイメージとは違い、楽観的でユーモアにあふれる人物というもの。ただ35歳で改名しているため【3】の影響は軽微だったか。人一倍家族を大事にする人であり、優れた芸術的センスを持ち、美しく調和した環境を愛しただろう。そういう美しい環境を提供するため一生懸命働いた。欧米諸国を外遊してきた彼の目には、維新後の日本と言う国の有り様がお世辞にも美しいとは言えなかったからかもしれない。
【実現数;8】 2+6=8
他者の期待に応えたいと思い努力を惜しまない。対立やストレスは避けようとする。自分のことは二の次にして働こうとするので周囲から尊敬される。バランス感覚に優れ、責任感が強いため、あれこれ引き受けすぎでオーバーワーク気味だったかもしれない。
【頂点数と試練数】 36-2=34
【第1期】 第1期は35歳の誕生日の前日まで。1850年(20)お由羅騒動に巻き込まれ、父は島流しになり金銭的に困窮した。
31歳になる1861年に御小納戸役に抜擢された。この役は殿様の側近くに仕えあらゆることを手伝う仕事で異例の抜擢だったという。1863年10月(33)、江戸で薩英戦争の後始末を行う。同年、御側役に昇進。1864年7月(33)蛤御門の変勃発。その後第一次長州征伐。幕府が勝利したため幕府の力が盛り返した。以降、幕府の力を抑えることが目標になった。
【第2期】 1865年(34~35)は薩摩と京都の間を3往復し幕府と朝廷に精力的に働きかけた。薩摩藩の一家臣にすぎなかったがすでに薩摩藩の主役として働くようになった。藩の当局に自分の行動は状況に応じて自由にさせてくれと、申し入れたという記録が残っている。
1871年11月(40)~岩倉使節団の副団長として欧米諸国を訪問。イギリスの産業の近代的な素晴らしさに驚嘆し、1873年3月15日(42)ドイツではビスマルクの屋敷に招かれ、鉄血宰相として国際政治をくぐり抜け、ドイツ統一を果たした彼の経験と教訓に傾聴した。
第2期の最後の年、43歳になったばかりの1873年10月14日、征韓論の閣議で西郷隆盛たちと対決。閣議は西郷支持の決着となるも、明治天皇が征韓論反対を受け入れたため征韓論派は全員辞職。この事件は維新後最大の危機だったとされる。
事件後、大久保の政敵はいなくなり、気がつけば政府の第一人者となっていた。1873年年11月内務省を創設し初代の内務卿となり独裁的な権力を握った。
【第3期】 1878年5月14日(47)暴漢に襲われ死亡するまでの4年間は、殖産興業に力を注ぎ多くの産業を立ち上げ、自ら総裁となって万国博覧会を開き、台湾出兵の講和条約の全権大使とし北京へ赴き交渉をまとめあげ、西南戦争の指揮を執りこれを鎮圧するなど、新政府唯一無比の柱石として、権力を一手に握り、超人的な仕事ぶりで日本の近代化を怒涛のごとく強力に押し進めた。
あとがき
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維新後の日本の幸運は、国家権力が大久保公の掌のうえに転がり込んできたことにあり。
公は私利私欲に走ることなく、また同郷の人間だけを重用するようなこともなく、ただただ純粋に日本が繁栄し、一日も早く近代国家の一員となり、お隣の清のように欧米諸外国の植民地にだけはならないようにと、己の時間体力精神力気力のほとんどすべてを国に捧げた。時には私財を投じて国の予算がつかなかった事業を行っていたほどだった。公が亡くなった時、残った財産(現金140円)より借金(8000円)のほうが何倍も多かったことや私有財産もすべて抵当に入っていたことが証明している。
※当時の8000円は現在なら約2億円。
まさに大久保公がいなければ、日本の近代化は軌道に乗ることができなかった。それどころか空中分解してもおかしくなかったように思える。
もっと評価されてしかるべき偉大な人物だ。
※MEMO
A;誕生数
B;運命数
C;実現数
実現数 = 誕生数 + 運命数 = 2 + 6 = 8
※参照
ja.wikipedia.org
数秘術で偉人をリサーチ 高橋是清【誕生数① 日本】Research the great with numerology "Takahashi Korekiyo" 【№① JAPAN】
数秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology
高橋是清(たかはしこれきよ)【誕生数①日本】
今年もまた2月26日が近づいてきました。
84年前の2月26日・・・、
そう、あの226事件。
これも深々と雪が降る26日に起こった事件でしたから、
当然、なんらかの天意が働いていたのでしょう。
この日、凶弾に倒れた高橋是清翁に捧げます。
どうか、21世紀の日出づる国の未来を切り拓く
すべての人たちを導いてくれますように・・・。
とくに誕生数が①の人は、
是清さんと同じくらいの年齢の時に
人生の転機となるような出来事が
やって来ることでしょう。
(36才、45才、54才前後)
※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。
一桁になるまで続けて出てきた数字です。
高橋是清(たかはしこれきよ 1854.9.19〜1936.2.26)
【誕生数; 1】1854.9.19⇒9.1.1&1
リーダーの中のリーダー。
生まれながらのリーダーであり真のリーダー。
宰相になるべくして生まれてきたような人。
維新直後の日本が近代国家の仲間入りを果たし、
かつ偉大な政治的リーダーに最短距離でなるよう、
純粋培養されたかのようだ。
常人離れした行動力、
決断力と類まれなる直観力を
持っていただろう。
【運命数; 7】高橋是清⇒2.5.7
好奇心旺盛で社交的な印象を与えるが
意外と控えめで優しい性格。
繊細かつ敏感で鋭い直観力洞察力も持つ。
人生において失望が学びの機会となる。
とくにカルマナンバーの16があるので
“信頼”にまつわる学びが訪れる。
ちょうど人生の第一期の最後の年に
起こったペルー銀鉱山事件のように。
【実現数; 8】1 + 7 = 8
高い地位を目指して努力する人。
中年以降に権力、権威、
もしくは財政的な報酬を手にする。
【頂点数と試練数】36-1 = 35
第一期は36歳の誕生日の前日まで。
35歳から36歳になる直前まで、
高級官僚を辞しペルーに
銀鉱山投資の責任者として行っていた。
ペルー到着後しばらくして、
銀鉱山が詐欺であることが明るみになり、
その解決に全力を尽くし
被害を最小限に抑え込んだ。
高橋是清でなかったら、
被害額は何倍~何十倍にもなっていた
と言われていて、その事後処理手腕は
非常に高く評価されたが、
日本国内では詐欺師扱いだった。
帰国後はしばらくホームレス状態
だったようです。
45歳になる年、日銀副総裁に就任。
53歳になる年、男爵授爵。
45歳以降は試練数が『0』。
82歳で凶弾に倒れるとはいえ、
それまで総理大臣をはじめ大蔵大臣、
商工大臣や農林大臣を歴任し、
無双状態と述べるほどの活躍ぶりでした。
日本が世界恐慌を世界でもっとも早く脱出できたのは
是清翁の手腕の賜物だったと言われています。
風貌が丸くて親しみやすかったため、
みんなから 『ダルマさん』と呼ばれた。
いまなお財政家として、世界的な評価も高い。
※メモ
A;誕生数
B;運命数
C;実現数
実現数=誕生数+運命数= 1 + 7 = 8
※参照
あとがき
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生まれた時から波乱万丈の人生だった是清さん。
10代前半でアメリカに渡り、
手違いで奴隷として売られてしまう。
が、結果として英語がペラペラになって
読み書きもマスターして帰国。
帰国後は仕事は引く手数多で、
嫌になって辞めてもすぐに次の仕事が見つかった。
しかもかなりの高給で。
そうしてなんだかんだで
日銀の幹部にまで出世し、
日露戦争時にはイギリスに渡り、
なかなか買い手がつかなかった
戦時国債を売り戦費を調達した。
なかなか売れなかったのは、
日本がロシアに勝つなんて
誰も夢にも思っていなかったから。
敗戦国がお金を返せるわけがない、
というのが世界の常識だった。
いま、日本がロシア領でないのは
是清さんの力に負うところ大なのです。
詳しく知りたい方は
ウィキペディアをご覧ください。
もしくは中公文庫から出版されている
『高橋是清自伝』もおススメです。