KATAZINO’s blog

日出づる国の未来を切り拓くすべての人たちへ

下鴨神社から上賀茂神社へ From Shimogamo Shrine to Kamigamo Shrine

 

下鴨神社へ。

 

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下鴨神社 鳥居

 

 

下鴨神社に来たら、神域内になんとも言えない甘い香りが漂っているのだが...。

 

きっと近くの民家でケーキでも焼いているのだろう...(そんなわけないか)。

  

糺の森の空気が凛として澄み渡る感じが心地いい。

 

 

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糺の森

 

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糺の森

 

 

 

上賀茂神社へ。

 

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上賀茂神社 参道

 

上賀茂神社は、なんだか田舎のばあちゃんの家に来たような雰囲気がするお社だ。

まあ、日本、つまり大和朝廷の原風景がここにある...ということなのだろう。

 

それはたぶん・・・、産土神社が熊野神社なのだが(和歌山ではない)、

熊野神社と言えば、八咫烏(ヤタガラス)。

 

その八咫烏と下鴨、上賀茂神社は深いつながりがあるからかもしれない・・・。

 

社伝では、八咫烏とは下鴨神社の御祭神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の化身だという。

 

そして、賀茂建角身命の娘が玉依姫命であり、

 

玉依姫命の息子が、上賀茂神社の御祭神、賀茂別雷大神という。

 

玉依姫命は、下鴨神社の本殿右の御祭神でもある。

 

少しややこしいのが、神武天皇の母も玉依姫だが、こちらは別人のようで、古代においては女の子に人気の名前だったらしい。

名前の意味するところは「神霊が依り憑く巫女」だとか。

 

ただ貴船神社の創建に関わったのも、神武天皇の母の玉依姫命となっていて、これは社伝にもそう書いてある。

 

貴船神社は天喜3年(1055)頃から明治まで800年以上も賀茂別雷神社の摂社となっていたことも、理解をややこしくする要因だ。

 

おみくじを引いてみたら、ズバリなお答えをいただきました。

豆木もあったので、せっかくだから書かせていただきました。

 

賀茂別雷大神かもわけいかづちのおおかみ)に感謝です。

 

 

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上賀茂神社 楼門①

 

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上賀茂神社 楼門②

 

 

玉櫛媛(たまくしひめ、玉櫛姫)、玉依媛(たまよりひめ、玉依姫

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A8%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%A1_(%E6%97%A5%E5%90%91%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

 

タマヨリビメ(日向神話)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A8%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%A1_(%E6%97%A5%E5%90%91%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

 

タマヨリビメノミコト

https://kojiki.co/gods/tamayoribime.html

 

京都霊山護国神社 Kyoto Ryozen Gokoku Shrine

 

先日、京都に行ってきた。

ここ最近、なんとなくだが、京都に行かなければいけないような、

気がずっとしていたのもあったからだ。

 

数秘術で偉人を分析』も9人までアップしたので、

その報告も兼ねて『京都霊山護国神社』に参拝してきた。

 

 

まずは本殿に参拝。 

 

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京都霊山護国神社

京都府出身の英霊7万3011柱と、嘉永6年以降の幕末から維新にかけて命を落とした志士を祀る。本殿右手の山の斜面には、木戸孝允(桂小五郎)を始め、坂本龍馬中岡慎太郎、平野國臣、宮部鼎蔵をはじめ、蛤門の変、天誅組の義挙等に加わった維新の志士たちの墓300余基があり、1356柱が合祀されてある。

 

 

 

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それから、本殿横の維新の志士たちが眠る墓地へ。

 

 

まずは、最上段の木戸公のお墓へ。

 

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木戸孝允公のお墓 最上段にある

 

木戸公の妻、幾松さんのお墓は仲良く隣にある。

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幾松さんのお墓

 

幾松さんのことはこちらはどうぞ。

木戸松子(幾松)の波乱な生涯 デキる美人妻は夫・木戸孝允をどう助けた?

https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2020/04/10/47060

 

 

木戸公には今の日本はどう映っているのだろうか・・・?

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木戸公のお墓から京都市街を望む

 

 

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坂本龍馬中岡慎太郎のお墓

 

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坂本龍馬中岡慎太郎のお墓から京都市街を望む

 

 

東京裁判で唯一、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張してくれたインドのパール判事の記念碑もあった。

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なぜかインドのパール判事の記念碑があった。

 

 

 

数秘術で偉人を分析』もやっと1クール分の9名をアップしただけなので、もちろんこれからも他の偉人たちをアップしていきますよ。

 

もし、自分と同じナンバーの偉人さんを見つけたら、じっくり読んでくださいね。

なぜなら、自分と同じナンバーを持つ人は、人生のパターン、転機のタイミング等が自分とよく似ているから。

 

同じナンバーの偉人は人生の大先輩とも言える。

 

あなたの人生にインスピレーションを与え、シンクロニシティを発動させ、導いてくれるだろう。

 

もしかしたら、彼らがやり残した分野の仕事を、あなたが受け継いでいくことになるかもしれない。

 

なぜなら、同じナンバーを持つ人の人生の目的地は、同じ方向だから・・・。

 

 

 

秘秘術で偉人をリサーチ 板垣退助【誕生数⑨ 日本】Research the great with numerology "Itagaki Taisuke" 【№⑨ JAPAN】

秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

 

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60歳の頃

 

板垣退助(いたがきたいすけ)【誕生数⑨ 日本】

 数秘術で偉人を分析シリーズ、九人目は板垣退助。日本人なら誰もが知っている明治維新の元勲だ。しかし、どんな人だったのかと聞かれれば・・・どこかで暴漢に襲われて「自分が死んでもナントカは死なない・・・」とか言い残して亡くなった人・・・という記憶がある人が多いかもしれない。

 

 かくいう自分もその一人で、今回、改めて板垣公の人生の足跡を辿ってみて、実は暴漢に襲われた時、命を落としていないことを知った・・・。

 

 一方、板垣公がどれだけ偉大だったかとううこともよく分かった。例えれば、山に登るとき、高い山ほど麓からは頂上は見えないように、公の功績はあまりにも大きくて高く、そして広く遠大だ。

 

 戦であればどこそこで武功を挙げた、という誰の目にも見える功績となる。だが国会の開設を求める自由民権運動を中心となって推進するとかいう、ゼロから形のない仕組みを作っていく、しかもそれは未だかつて日本ではだれも聞いたことも見たこともないシロモノ。いくら丁寧に話しても理解できない人のほうが多かっただろう。

 

 しかし、予定通り、1890年に第1回総選挙は行われ、帝国議会は開かれた。板垣公の功績とは、全くのゼロ、無風状態、線香の火さえもないところから、気運を生み出し、それを膨らましていった点にあるといえるだろう。

 

 飛行機もそうだが、何事も動きだし離陸するまでが一番エネルギーを要する時であるように・・・。

 

 このように№9の人生というものは、往々にして遠大で複雑で高尚である場合が多い。インドのマハトマ・ガンジーも同じ№9だが、そういう意味では、やはり自由民権運動を主導するのに最も相応しい人物は板垣公しかいなかったと言える。 

                                     
 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(28才、37才、46才前後)

 

※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。

 

 

 

板垣退助 (1837.5.21~1919.7.16)

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44歳の頃

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50歳の頃

 

【誕生数;9】 1837.5.21 → 1.8.9 & 3

卓越した現実的処理能力と統率力、崇高な精神性の持ち主。自由や平等、フェアであること、誠実であることを良しとしていただろう。表現能力も秀でていて言葉による弁舌も得意だっただろう。実際、幕末期は軍指揮官としては西郷に次ぐ評価を受け、その後、自由民権運動を主導し全国を遊説して回ったが、これは弁舌の才なくしてはできない仕事だ。

親分気質と聖人のような俗世間を超越したような、鬼と天使が同居しているような面があったかもしれない。幼少期は番長同然だったようで、毎日喧嘩ばかり、一方、人生の後半は金も名誉も地位も興味ないような、まるで『竹林の七賢』のような暮らしぶりだったそうだが、№9ならそれも頷ける。何事も大局から捉えていたのだ。

 

 

【頂点数と試練数】 36-9=27

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第1期(27歳まで)

【頂点数; 8】現実的な成功の機会がもたらされる。

【試練数; 2】自分の思い通りに物事が進まない状況も訪れる。        

幼少期は腕白でやりたい放題だったようだが、幼馴染の後藤象二郎の叔父だった、土佐藩家老吉田東洋に抜擢され、藩主山内容堂の側に置かれた。次第に藩の要職を任されるようになった。土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張していたが、当時の土佐藩上士は公議政体論が主流だったため、この点において多くのジレンマを抱いていただろう。

 

第2期(36歳まで)

【頂点数;4】 第1期の経験により評価が高まる。

【試練数;2】 自分の思い通りに物事が進まない状況は続く。   

1867年には、藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令した。同年9月、板垣退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議。10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す、など土佐藩の中心的存在となっていった。

だが12月、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対していた板垣は失脚。土佐藩兵は板垣を残して上洛。しかし、翌年1月9日、板垣の失脚は解かれ、1月13日、深尾成質を総督、板垣退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦、と状況は目まぐるしく変転した。

1870年に高知藩の大参事となる。1871年明治新政府の参議となる。1873年、板垣は率先して征韓論を主張、だが欧米視察から帰国した岩倉具視らによって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らとともに下野した。(※ちょうど第2期の終わりの年にこの事件は起こった。)

 

第3期(45歳まで)

【頂点数;3】 いろんなことに挑戦する。様々な人との出会い。

【試練数;0】 この時期は特に試練はなく比較的自由に生きれただろう。 

征韓論を契機に自由民権運動に挑戦することになる。政党も結成し全国を遊説しさまざまな人々との出会いがあっただろう。

第3期の最後の年の4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。この時放った言葉が「板垣死すとも自由は死せず」だったという。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けた。

11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国。この時期は試練数0の時代であり、比較的好きにできた時代だっただろう。

この洋行はいろいろと波乱含みだったがそれはここでは触れないことにしよう・・・。

 

第4期(46歳以降)

【頂点数;6】 他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。

【試練数;4】 忍耐力を鍛えられる。

それまでの確執やこだわり、対立などを超えて、大局に立ち活動した。1896年、議会内で孤立していた自由党が第2次伊藤内閣と協力の道を歩んだことや、1898年、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣したことからもそれは伺える。

1919年、7月に肺炎でお亡くなりになるが、これはスペイン風邪が原因だったのではないだろうか?

幕末から維新を駆け抜けた人生を送り、明治日本の主要な人物だった板垣公、82歳という長寿に達し、天寿を全うしただけでもとんでもなく強運な御仁だったと思う。

 

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迅衝隊(前列左から伴権太夫板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田清廉、吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉、真辺正精、西山榮、北村重頼、別府彦九郎)

 

 

あとがき

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 板垣退助公はもともと乾姓を名乗っていて、本来は武田信玄重臣であり、武田四天王でもあった板垣信方が祖であったようだ。

 

 戊辰戦争では土佐藩士による迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。その際、甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視らの助言を得て、板垣氏に姓を復したという。

 

 この策が講じて甲州勝沼の戦いでは近藤勇の率いる新選組を撃破、その後、江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召し抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのに絶大な効果があったそうだ。

 

 東北戦争では、三春藩無血開城させ、二本松藩仙台藩会津藩などを攻略するなどの目覚ましい軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増されている。

 

 官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れたという。 

 

 板垣公は自由民権運動の旗手と見なされているのだが、このように、当時においては軍事的才能のほうを高く評価されていて、将としては、第一位が西郷隆盛、第二位が板垣退助、第三位が山縣有朋という維新の志士たちの認識だったそうだ。

 

 西郷もある時、『今の時において、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねられ、即座に『それは板垣じゃ』と答えたという説話が残っているほど。

 

 しかしながら、なぜ軍人として活躍の道がなかったかというと、当時の土佐藩薩摩藩長州藩に対抗できるだけの力がなかったからだったとか。 

 

 いずれにせよ政治家は板垣公の天職だったのだ。有能な軍人にもなることができた人だが、№9がそれを許さなかったのだろう。

 

 世のため人のために生きる道こそが№9の人生だからだ。

 

 

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板垣信方



 

 

※MEMO

 

 A;誕生数

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大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ大阪府大阪市中央区北浜)

 

 

 

※参照

 

ウィキペディア 板垣退助

ja.wikipedia.org

 

「自由」に生きた土佐の悪童 板垣退助

www.japanserve.com

 

板垣退助 いたがき たいすけ

kotobank.jp

 

板垣退助国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)

japanknowledge.com

 

板垣退助の功績とエピソード

www.japankochi.com

 

100円のお札に描かれたあの人物! 自由党を組織し自由民権運動を主導した『板垣退助

benesse.jp

 

自由民権運動

ja.wikipedia.org

 

【寄稿・偉人伝の裏側を見破る】

www.snsi.jp

 

秘秘術で偉人をリサーチ 奥保鞏【誕生数⑧ 日本】Research the great with numerology "Oku Yasukata" 【№⑧ JAPAN】

秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

 

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奥保鞏(おくやすかた)【誕生数⑧日本】

 

 数秘術で偉人を分析シリーズ、8人目は日露戦争の司令官のひとり奥保鞏。実績の割には知名度が低いように思えるが、とんでもなく凄い人だ。どれだけ凄いかというと、長州征討で長州藩に刃向った小倉藩出身にも関わらず、長州、薩摩出身者以外で初めて元帥に昇進したことからも、それはわかる。

 

 奥元帥は豊前小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保の長男として、小倉(福岡県北九州市)に生まれる。幕末は主家が幕府側だったため、主家に従い長州征討に参加した。

 

 その後、陸軍に入営し、鎮西鎮台に所属。佐賀の乱台湾出兵、神風蓮の乱、西南戦争日清戦争日露戦争に従軍し、人生の2/3は戦陣とともにあったという、まさに筋金を入れて、それをさらに極限まで鍛え上げたかのような武人だった。

 

 その誕生数は【8】。誕生数8の人は華やかな人生を送る人が多いが、大砲や鉄砲の弾丸、刃の切り合う音、敵味方の兵士たちの咆哮がこだまする・・・そんなある意味華々しくも賑々しい戦場を常とした奥元帥は、まさに誕生数8を地で行った一生だった。

 

 元帥まで昇進したことは異例中の異例だったようだが、それは奥元帥の古武士然とした謙虚な人間性もあったようだが、その指揮統帥能力が超越していたことによるようだ。当時の軍司令官の中で、参謀の補佐なく作戦遂行できるのは奥だけ、と言われていた。

 

 つまり「余人をもって代えがたい」というほどの人物だったのだ。

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(29才、38才、47才前後)

 

 ※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。

 

 

奥保鞏(おくやすかた1847.1.5〜1930.7.19)

 

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誕生数; 8】1847.1.5  →2.6.8  &5

物腰はソフトで調和を重んじる。何事にも柔軟で臨機応変に対応でき、上層部からの指示は素直に実行に移しただろう。全体と細部を把握できる人であり、指揮統率能力が秀でていた。ここぞというときは冒険に打って出るような作戦も実行しただろう。大局を捉え、バランスの悪いところを見抜き、そこを勇猛果敢、徹底的に攻めただろう。古武士のような謙虚な性格だったたと言われるが、戦法は強気で熾烈かつ冒険的なものが多かったのではないだろうか。一見穏やかな風貌と印象を人に与えるが、人一倍エネルギッシュであり、内面には熱い闘志を秘めていただろう。

 

 

 

【頂点数と試練数】36-8 = 28

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第1期(28歳まで)

【頂点数; 6】他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。

【試練数; 4】忍耐力を鍛えられる。    

15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぎ、馬廻・知行300石となって七郎左衛門と改名。小姓、物頭を務める。佐賀の乱に出陣した時は、弾丸が胸と腕を貫通したにもかかわらず、そのまま部隊を指揮したという。

 

 

第2期(29歳〜37歳)

【頂点数; 7】精神的な深まり。魂の進化を促される。

【試練数; 3】自己表現への欲求が高まる。          

西南戦争がその後の人生に与えた影響は大きかっただろう。この戦争の時、奥元帥は熊本城に籠城していたが、その時のメンバーは谷干城児玉源太郎樺山資紀、川上操六、大迫尚敏、小川又次という、その後の日清日露等の戦役で重要な役割を担った士官たちだった。

その後このメンバーは時折集まって桜鍋を囲んで当時の思い出話を語り合っていたという・・・。彼らはつまりソウルメイト。死地を共にした仲間同士、精神的な絆は深まり互いの魂は進化しただろう。

このときの西南戦争では奥元帥は決死隊を結成して薩摩軍の包囲を突破した。その際に銃弾が頬を貫通するも、左手で傷口を押さえ、右手で軍刀を振るって指揮を執り続けたたという。

この突破作戦が当時の錦絵に描かれ奥元帥の錦絵が飛ぶように売れたという。つまり敵包囲陣を突破するという試練によって自己表現がなされた=奥元帥の評価が高まった。

 

 

第3期 38歳〜46歳)

【頂点数; 4/13】第1期、第2期の経験により評価が高まる。

【試練数; 1】来たるべく日清日露の戦役の指揮官となるべく鍛えられた。                

38歳になった年の5月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長に着任。その後、近衛歩兵第1旅団長、東宮武官長、近衛歩兵第2旅団長を歴任。

 

 

第4期(47歳以降)

【頂点数; 3】いろんなことに挑戦する。様々な人との出会い。

【試練数; 1】不可避となった日露の戦役の指揮官となるべく鍛えられた。

48歳になった年の8月、軍功により男爵を授爵し華族となる。

47歳になった年の2月から9月まで欧州出張。11月第5師団長に任命され日清戦争に出征。

55歳の時、インドに出張。翌年3月に帰国。

59歳の時、参謀総長に就任。

60歳、伯爵に叙せられる。

64歳、元帥府に列せられる。

65歳、議定官に就任。

83歳、薨去

 

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1897年頃の写真

 

あとがき

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 日露戦争の時の奥元帥の副官がみた奥元帥の印象は、 『見た目は全くの田舎の爺様であり、まったく才能があるようには見えなかった。どこにもでもいる平々凡々な寡黙な人物としか瞳には写らなかったが、そこに居る人物は自分を捨てて全軍の中枢になる責任感の強い軍人であった 』という。また日露戦争の功労による下賜金を自分のものにせず、部下に与えたという。  

 

 西南戦争では熊本城に籠城、決死隊を結成し、薩摩軍の包囲を突破、官軍が陣を張る熊本城の南約15㎞地点の木原山に辿りつき連絡をとることを成功させた。包囲を突破する際に銃弾が頬を貫通したが、左手で傷口を押さえ、右手で軍刀を振るって指揮を執り続けたという。これにより勇猛果敢な軍人だと有名になった。

 

 また奥元帥は難聴だったようで、筆談でやりとりしていたそうだ。ヴェートーベンが耳が聞こえなかったのに偉大な作曲家だったように、奥元帥も難聴だったが故に、戦場のちょっとした気配や敵指揮官の心理や意図が手に取るように読めていたのかもしれない。

 

 奥元帥は言うなれば”静寂の猛将”だ。その戦ぶりは穏やかな人物像とは逆で、非常に苛烈で強気のように思える。それは佐賀の乱のとき弾丸が胸と腕を貫通したが、そのまま部隊を指揮したり、西南戦争の時も負傷したまま戦闘を続け、日露戦争の南山の戦いの時は、味方劣勢となり大苦戦となったが、奥元帥は攻撃を断念せず苛烈に攻めたことからうかがえる。

 

 もし南山の戦いで奥元帥が攻撃を断念していたら南山を占領するのに多くの日数を費やすことになり、その後の戦局は違ったものになっていたかもしれない。もしかしたら奉天会戦まで日本軍は物資も兵員ももたなかったかもしれない。

 

 その人となりは謙虚で、古武士然として奢ることも威張ることもなく、自分の功績は自慢するどころか逆に意図的に隠していたという。一生武人であることを貫き、台湾総督の後任を打診されたた時も、「政治には関与しない」とアッサリ断わった。

 

 ただ相当な酒好きだったようで、夜に部下が自宅に来た時などは翌朝まで飲み明かすこともよくあったり、自宅に人を招いて食事をする際は、まず「今夕は何の風情も無いが、何とぞ鶏鳴までゆるゆるお飲み願う」と挨拶したそうで、来客は皆この挨拶に度肝を抜かれていたという。

 

 しかしながら20歳前後のときから60歳手前になるまで、多くの激戦の戦場に立ちながら、83歳という当時にしてはものすごい長寿で天寿を全うした奥元帥という人物は、とんでもなく強運だったと言える。

 

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※メモ

 

 

 A;誕生数

 

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※参照

 ウィキペディア奥保務

ja.wikipedia.org

 

奥保務

www.sakanouenokumo.com

 

古志山人閑話

1pen1kyusho3.blog.fc2.com

 

 

vic.paradwiki.org

 

 

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数秘術で偉人をリサーチ 木戸孝允【誕生数⑦ 日本】Research the great with numerology "Kido Takayoshi" 【№⑦ JAPAN】

数秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

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木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)ら。明治3年(1870年)撮影。

 

木戸 孝允(きどたかよし) 【誕生数⑦ 日本】

 

 数秘術で偉人を分析シリーズ、7人目は維新三傑のひとり、木戸孝允

 

 山口県萩市藩医 和田昌景の長男として生まれました。

 和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くという。

 

 そしてその毛利家は、源頼朝鎌倉幕府創建に大きく貢献した大江広元を祖とするという。

 

 木戸孝允公もまた、明治新政府において、西南戦争勃発までの間、中心的役割を務めたが、大江氏の血脈は国家の非常事態時に目覚めるようです。

  

 木戸孝允公の 誕生数は⑦。なお⑦は⑯というカルマナンバーという解釈もできます。加えて生まれ日は⑪日、生まれ月+生まれ日は⑲でカルマナンバー、誕生数を構成する主要なナンバーがマスターナンバーとカルマナンバーだという、

 

 木戸公もやはり、日本の歴史の転換期に大きな使命を持ってこの世に誕生してきた人なのでしょう。ご先祖で同じ使命を持って活躍した人もいますしね。そういう家系なのだと思います。

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(30才、39才、48才前後)

 

※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。 

 

 

木戸孝允(きどたかよし 1833.8.11~1877.5.26)

 

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 誕生数;7】1833.8.11 → 6.1/19.7 & 11

 時代の先を察知し、事が起こる前に勘付く直観力を持っていただろう。人に見えない世界が見えていた。新しいこと最先端なもの革新的なことが大好き。大胆かつ神がかり的なリーダシップを発揮しただろう。その一方状況を冷静に論理的に分析し、いくつもの仮説を立てて、自らの直観と合わせ未来を予測することもできた人だろう。常にインスピレーションが溢れるように湧くとともに、行動は迅速で大胆かつ繊細で革新的、本能のまま行動しながら冷静に自分を顧みることができただろう。

 

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【頂点数と試練数】 36-7=29

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第1期

【頂点数;1/19】 自分を主張し革新的になる。新政府のリーダーとなるべく鍛えられた。

【試練数;6】 責任を担い他者に尽くし人の世話をし育てる。    

 医者の家に生まれるが病弱ということで武家に養子に出される。剣術を学び兵学儒学、漢文など武士として必要な素養を修め最高レベルに達した。吉田松陰からも認められるほどで江戸に出ている間も時代の最先端の知識や技術を学ぶことを怠らなかった。

西洋兵学や小銃術、砲台築造術、造船術、洋式帆船造船術、英語など。第1期の終わる頃には長州藩中枢で頭角を現し始めていた。

  

第2期

【頂点数;8】 現実的な成功の機会がもたらされる。
【試練数;4】 制約の多い現実にも取り組むことになる。 

ちょうど転機の30歳前後は、下関での攘夷戦争や禁門の変とその後の潜伏生活、第一次長州征伐と激動に巻き込まれた。何度も死地に遭遇したことだろう。高杉晋作の挙兵後、藩の権力を奪還すると藩の統率者として迎えられた。以後、軍政改革と藩政改革に邁進した。

32歳の時、薩摩の西郷たちと何度も会談し薩長同盟を結ぶ。第二次長州征伐に勝利、翌年大政奉還となった。新政府においても庶政全般の実質的最終決定責任者となり、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行った。頂点数の通り、現実的な成功の機会がもたらされた。

一方、大久保利通との政治的路線の違いがだんだん生じてきて、制約の多い現実にも直面した。そしてちょうど第2期の終わる38歳になったばかりの頃、岩倉使節団全権副使として欧米視察に出ることになった。

 

第3期

【頂点数;9】 学びを統合し世界に恩返しをする時。物質的精神的な富と成熟の感覚。
【試練数;2】 耐え忍ぶ状況は続く。   

40歳になったばかりのタイミングで欧米視察から戻った。39歳からが転機のタイミングだったが丸々外国で過ごした。帰国後は憲法の制定、二院制議会の設置など欧米で見聞してきたことで日本に取り入れることが可能なことを積極的に訴え、国民教育の充実、天皇教育の充実に取り組んだ。

物質的精神的には何不自由なかっただろうが、39歳の時、台湾出兵に抗議して参議を辞職した。

1877年2月、西南戦争勃発。明治天皇と京都まで出張するが持病が悪化し朦朧状態になる。そのまま5月26日、見舞いに来ていた大久保利通の手を握り締め「西郷もいいかげんにしないか」という言葉を発したのを最後に息を引き取った。

奇しくも西郷とは同じ誕生数であるが、維新三傑と呼ばれたこの二人は同じタイミングでこの世を去った。

 

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あとがき

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 木戸公は長男でしたが、病弱で長生きしないと思われていて、7歳でお向かいの武士の家の桂家に末期養子に出されました。病弱とは言うものの生粋の悪童だったようで、船頭ごと船を転覆させて快哉を叫ぶ、とかいう悪戯に熱中していたそうです。なんとおおらかな時代だったのか!? しかし本当に病弱だったんでしょうか?

 

 さすが源義家に兵法を教えた大江匡房鎌倉幕府のブレーンだった大江広元、楠正成に『孫子』や『闘戦経(とうせんきょう)』など兵書を教授した大江時親の流れを受け継ぐだけあり頭脳明晰だったようで、10代の頃、藩主毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受けたそうです。

 その親試の内容とは、即興で漢詩を作ることと、『孟子』の解説だとか。10代で孟子を理解して、それを藩主の殿様に解説する・・・、よく出来たので褒賞までいただく・・・。

 もう神童だったとしか思えないですね。そういうわけで木戸公はこの頃から若き俊英として注目され始めました。

 

 あの吉田松陰からは「事なすの才あり」と評価され、さらに「桂は我の重んずるところなり」と言わしめ、親友関係にありました。

 

 現代なら早熟な天才児といったところですが、木戸公の凄さは、頭脳派というだけではなく、剣術でも当代随一の腕前の持ち主だったことです。さらには柔術の心得もあったといいます。

 

 坂本龍馬も剣術の腕は超一流だったことは有名ですが、木戸公と坂本龍馬は江戸で試合をしていた、という記録が近年見つかりました。それによれば木戸が3対2で勝利してます。恐るべしかな桂小五郎

 文武両道にしてそのレベルはどちらも当時の日の本最高レベルだったのです。たとえるならスポーツ万能なのに成績もいつも一番・・・といったとこでしょうか。

 

 さらにその人となりも、維新前から藩政の権力を握る中心人物であり、維新後も新政府の中心人物であり、若い時には江戸で三大道場のひとつと呼ばれた練兵館神道無念流)で5年間も塾頭を務めあげたほどの達人であったにも関わらず、偉ぶることもなく、威圧的でもなく、気さくで親切で穏やかで陽気で話好きで、だれに対しても誠実だったそうです。

 目下の意見にも耳を傾け、よく部下を引き立てたそうです。剣術の達人でもありましたが何事も平和裏に処理することを好みました。そのためついたあだ名が「逃げの小五郎」なのでしょう。

 

 体格も当時の日本人男性にしては大柄だったようで、174㎝だったという記録が残っていますが、顔だちも西洋人ぽく彫が深く、岩倉使節団で海外を回っていたとき、ヨーロッパのどこの国に行ってもモテモテだったとか。

 

 つまり、木戸公は人間性も能力も、そしてその外見も、非の打ちどころのない完璧な人物だったようです。

 

 しかしながら幕末~維新後の激動の時代を生き抜いた代償として、無理がたたったのでしょう、30代の頃からいろいろな病に侵されてしまいます。特に明治政府は急進派から守旧派まで、絶え間なく権力闘争を繰り広げていて、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかったといいます。

 

 例えるなら木戸公は軍師のようであり、かつ剣豪でもあり、さらには温厚で陽気な社交家で、外見も威風堂々にしてイケメンという、人物的にも魅力的でだれからも慕われたという稀有な人物でした。例えるなら諸葛孔明関羽雲長を足してイケメンにしたような感じでしょうか。

 

 そういうわけで天は二物も三物も、いや持てるだけの能力を木戸公に与えて、維新期の危機のタイミングに、この世に送り出したかのように思えてなりません。

 

 21世紀の木戸公も、そろそろ現れる頃ではないでしょうか・・・?

 

 

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岩倉使節団。左から戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通

 

 

 

 ※MEMO

 

    A;誕生数

       f:id:KATAZINO:20200411233816p:plain

 

    f:id:KATAZINO:20200411233834p:plain

 

 

 ※参照

 

ja.wikipedia.org

 

 

bushoojapan.com

 

 

ktymtskz.my.coocan.jp

 

 

colorfl.net

 

 

www.sankei.com

 

 

 

maneuver.s16.xrea.com

 

数秘術で偉人をリサーチ 夏目漱石【誕生数⑥ 日本】Research the great with numerology "Natsume Soseki" 【№⑥ JAPAN】

数秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

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 夏目 漱石(なつめそうせき)【誕生数⑥ 日本】

 

 数秘術で偉人を分析シリーズ、6人目は夏目漱石

 

 本名は夏目金之助。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、華やかで恵まれた人生を送った、と誰もがイメージしている偉人ですが、その生涯は意外にも過酷なものでした。

 

 名主の家に生まれますが、時は明治維新後、家は傾きつつあり、里子に出されたり養子に出されたりかなり苦労しています。20歳の時には長兄、次兄を相次いで亡くし、24歳の時は、慕っていた三兄の妻と死別と、次々に近親者を亡くしています。

 

 漱石自身も子供の頃から疱瘡を病んだり、腹膜炎(虫垂炎)のため大学予備門を落第したり、厭世主義、神経衰弱に陥ったり、留学中のイギリスでは肺結核にかかったり、胃潰瘍には一生苦しめられます。

 

 漱石の作品は、世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれましたが、漱石自身にはそんな余裕などなく、常に病気に悩まされていたのです。

 

 漱石のすべての作品は、そんな精神的肉体的に苦しみもがいた中から生み出されたものだったのです。大学予備門は腹膜炎で落第するものの、以後はほとんどの科目で首席と、成績は超優秀でした。特に英語が頭抜けて優れていたそうです。
 
 夏目漱石の 誕生数は⑥。

 

 なお⑥は⑥でも㉝というマスターナンバーでもあります。

 

 加えて誕生日の2月9日は⑪、生まれ年の1867年は㉒であり、誕生数を構成するナンバーがすべてマスターナンバーだという、スケールが大きく、かつ特殊な人生を送るべくこの世に誕生してきた人だと言えるでしょう。

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(31才、40才、49才前後)

 

 ※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。

 

 

夏目 漱石(なつめそうせき 1867.2.9~1916.12.9)

 

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【誕生数;6/33】1867.2.9 → 4.2/11.6/33 & 9

 品行方正、謙虚で礼儀正しく、自己中心的要素がまるでない性格。常に自分より他者を優先し、誰かの役に立つこと、サポートする行動をとってしまう。自己犠牲、自己奉仕であることがデファクトスタンダードの人。ものすごく感受性が繊細、普通の人が感知しえない感覚があっただろう。霊能者であったかもしれない。

 誕生数を構成する数字がすべて11、22、33というマスターナンバーであり、生まれ日も9というスピリチュアルな数字であるため、普通の平凡なありきたりな幸せな人生など送れるはずはない。

 そのかわり文豪として歴史に名を刻み、後世に大きな影響を与えた。33の6のナンバーを持つ人は、33歳の時に大きなイベントが起こるが、漱石はこの年、イギリスに留学することになる。

 

 

【頂点数と試練数】 36-6=30

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第1期

【頂点数;2/11】 協力の時代でありスポットライトが当たる。

【試練数;7】 深刻な状況も訪れる。深いスピリチュアルな問題に直面する。

幼少の頃は里子や養子に出されたりして苦労したが、頭脳明晰であったため帝国大学英文科に進学する。同窓生だった正岡子規との出会いから文学的人間的影響を受ける。その正岡子規の家で作家になるきっかけとなる高浜虚子と出会う。俳句結社『松風会に参加』したり、俳壇でも活躍し、名声を上げていく。

一方、この時期に身内を立て続けに亡くす。とくに三兄の妻、夏目登世には恋心を抱いていたそうで心に深い傷を負ったという。この時期すでに厭世主義、神経衰弱に陥り始めていたようだ。


第2期

【頂点数;4/13】 第1期の経験により評価が高まる。

【試練数;5】 外側の世界での成長を目指し励むよう仕向けられる。

第1期での経験が花開き文学者としての評価が高まった。31歳の年、俳句結社『紫溟吟社』を興し俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。1905年1月『吾輩は猫である』を発表。続く1906年4月『坊ちゃん』を発表。一方、試練数5にあるように、イギリスに留学し国際的視野を得ることになった。

 

第3期

【頂点数;6】 他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。

【試練数;2】 耐え忍ぶ状況。

第3期の最初の年、40歳になったすぐの4月に、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。

養父の塩原昌之助には、漱石朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続いた。1908年3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。 

この時期精力的に作品を発表するが、年々病気がちになっていく。肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。職業作家という生き方が、漱石の神経をすり減らし胃腸にダメージを与えていたのかもしれない。

 

第4期

【頂点数;6】 他者のために他者とともに働き、他者の欲求に基づいて考え行動する時代。

【試練数;2】 耐え忍ぶ状況。

第4期の最初の年の12月9日、午後7時前、胃潰瘍により死去。

 

 

※MEMO

 

  A;誕生数

 

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※参照

 

ja.wikipedia.org

 

  

数秘術で偉人をリサーチ 大村益次郎【誕生数⑤ 日本】Research the great with numerology "Omura Masujiro" 【№⑤ JAPAN】

秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology

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大村 益次郎(おおむらますじろう)【誕生数⑤ 日本】

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 数秘術で偉人を分析シリーズ、五人目は大村益次郎

 

 維新10傑の一人であり、大久保公と同じく40代半ばでこの世を去ってしまった維新の巨星。

 

 長州征討戊辰戦争長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となりました。

 

 戊辰戦争後、凶刃に襲われるまでの約3ヶ月の間に、その後の日本陸軍の創設に重要な影響を与える決断を矢継ぎ早に下し、

 

 事実上の日本陸軍創始者と見なされています。

 

 そういう理由で靖国神社の参道中央にいつも立っていらっしゃいます。

 

 もし大村益次郎があと20年生きていたら、その後の歴史は違ったものになっていたように思えてなりません。

 

 大村益次郎の 誕生数は⑤。

 

 同じ誕生数の人は同じくらいの年齢の時に人生の転機となるような出来事がやって来るかもしれません。(32才、41才、50才前後) 

 

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※誕生数は自分の誕生日の年月日を全部足します。一桁になるまで続けて出てきた数字です。  

 

大村益次郎(おおむらますじろう 1824.5.30~1869.12.7)

 

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【誕生数;5/14】 1824.5.30 → 6.8.5 & 3

語学の才能に優れ、読み書き話す、さらには外国語の翻訳も独学で習得してしまうほど、語学に関しては生まれつき天賦の才があったようだ。誠実で裏表ない性格であり非常に高いエネルギーの持ち主、好奇心旺盛で行動力も備え、様々なことに興味を持っていたのだろう。

そして、それら興味の対象を冷静に観察分析して論理的に思考し、自分なりの仮説を導き出す頭脳の持ち主であっただろう。大局と細部の両方が見えている人であり、大将軍の器だった。

既存の枠組みに囚われない自由な発想と思考を持っており、それが時にはあまりにもドラスティックだったり、周囲からは理解不能に思われ、急激な変化を好まない人間たちからは煙たがられたかもしれない・・・。

 

 

 

【頂点数と試練数】 36-5=31

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第1期 

20代半ばまでに当時の最先端の西洋兵学蘭学を習得した。オランダ語の本の翻訳も難なくこなした。第1期の後半、26歳~30歳の約4年間だけがのんびり暮らせた時代だった。31歳の時、村田蔵六と改名。同年、長崎に行き軍艦建造の研究を行う。そこで自分を看取ることになるシーボルトの娘楠元イネと出会う。  

 

第2期 

第1期で学んだことを私塾を通して多くの人に教えるとともに、さらにヘボンのもとで英語も学ぶなど学びを深めた。32歳の年、江戸に出た。江戸では私塾を開塾。幕府の蕃書調書教授方手伝、33歳の年、講武所教授になる。34歳の年、長州藩上屋敷で開催された蘭書会読会に参加し兵学の講義を行った際、木戸孝允と出会う。これを機に江戸在住のまま長州藩士になる。第2期の後半、激動の第3期の準備をするかのように、39歳の年、萩に帰国する。40歳の年、藩の多くの重要な仕事に関わった。  

 

第3期 

41歳の年、上海に隠密に渡る。同年、高杉晋作から奇兵隊などの指導を要請される。木戸孝允からは10万取の上士に推挙される。同年、大村益次郎と改名。不思議と人生の転機のタイミングで改名している。それからは8の時代の通り、お金、権力、権威の旗印のもとに、その才能を最高潮に発揮し、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争終結まで、新政府軍の総司令官として指揮を執った。戦後もドラスティックに軍隊の創設について考えていたが、大久保利通らとは考えが合わなかった。大村の考えを理解できない不満士族たちによる刺客に襲われ45歳の若さでこの世を去った。

 

 

 

 

 

※MEMO

 

 

  A;誕生数

 

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※参照

 

ja.wikipedia.org

 

 

dot.asahi.com

 

 

ktymtskz.my.coocan.jp